原点 | misasanのブログ

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この地球を守るのは祈り、唯物論者がこの世を支配し人々を狂わせても、不可視の力が祈りによって復活し、人々を救い解放します。グローバル化によって失われた、其々の民族が持つ祈りが甦りますように~♪

こんにちは晴れ
 
今日はワンコ好きなNさんが撮った狛犬の写真を並べ、今深刻になりつつある問題に軽く触れてゆきたいと思います。
 
 
食糧難の問題が最近増えました、そして備蓄しましょう!って啓発する人も増えてきました。
 
そもそもコロナ騒動もウクライナ問題も、仕掛ける側からすれば全て大きな計画を実現するためのプランの一つです。
 
コロナ騒動では飲食店が槍玉に合いました、でも一番の狙いは飲食店に食材を提供している、農家さんや畜産業の人たち、内戦や世界的な不安により流通が滞ると安価な肥料も家畜のエサもストップしますよね。
 
大きなダメージを受けているのは、我々に必要な食材を生産する人たち、この事が重要なことで困ったことです。
 
そしてさらに今の経済社会の中では、備蓄できる人と出来ない人がいるということも深刻な問題です。
 
 
次はサル痘が始まるようですね、ビル・ゲイツが天然痘のこととか言ってましたね、流行らせてワクチンで儲けたいようです。
 
気をつけましょうね!
 
 
さて、話は変わりますが写真は太宰府天満宮の狛犬たちですが、太宰府は基本寺です。
 
しかし道真公の功績は、道真公の時代でさえ既に薄れゆく神道への在り方を正したことでも有名です。
 
そう考えると道真公の時代からも日本の神道との向き合い方というかのは、いつの時代も課題だったのかもと思います。
 
なぜ神道とは?という問いかけに、曖昧になってしまうかと言えば「なぜか分からないけれど昔から行ってきた」という曖昧さもあると思います。
 
現実、神社さんですら神棚の祭り方は曖昧で観音開きでも平気、何が正しくて何が悪いか分からない人ばかりです。
 
古神道の教祖であった第73世武内宿禰の竹内睦泰先生ですら、神棚の祭り方はムチャクチャでした。
神様を見下すように地べたに配置し、偶像崇拝の龍の置物を神棚に祀る、そりゃ早死にしますし子孫も残りません!
 
なぜか?
 
ここにこそ、正しい継承にこそ、子孫繁栄という有難い未来永劫の道があるからです。
 
神社さんがサンプルの神棚を観音開きにしています、仏教では観音開きが普通かも知れませんが神道では「神は見たり触れたりしないもの肌で感じるもの」これが教えです。
 
御扉があるのは見えない環境を作ることが必要だからです、だから本来はお札立てのようなものは本来の霊的な役割りは発揮しません。
 
お札立ては単なる飾りにしてしまい、お札を御神札として厳格なものとして扱っていない「神様は大切、神様は失礼あっちゃいけない」と言いつつ粗末に扱っていることになります。
 
では何故、お札は御扉の中にし舞い込むのか?
何故お札を神棚に納めるのか?を解き明かしてゆきましょう。
 
本来日本人は「神の腹から生まれ神の腹に帰る」という考え方がありました、死んだら産土神社や土地神さまの所に帰ると考えられてきたため、亡くなった人のお通夜では帰幽奏上と言って「氏子の〇〇さんなくなりました」と氏神様に報告するのです。
 
そして霊葬祭では喪に服し、御霊と同じように見えないように喪に服し、神の世界へ御霊をあの世にお送りするのです。
 
昔は幽祭神事は基本的に夜に行われており、灯篭が神社に沢山あるのはそのためです。
 
亡くなった方の供養は、皆さんがご存知のように春と秋に祖霊祭やお盆に神事を行います。
仏教伝来以前から行われた日本の土着信仰のため、本来仏教を通じて祖先の霊を祀るというのはありませんでした。
 
そして神事は、神になった御霊に降臨して頂くための依り代を用意しお祀りします。
 
その依り代を納めるものが神棚や祖霊舎になります、神様が依り代に降りてこられたお姿を見ないようにするために、御扉のついた神棚や祖霊舎にお祀りしてきたという訳です。
 
まさに神社も同じですね、本殿には神様が存在され、我々は拝殿から神様にお祈りをします。
昔から本殿には剣や地域の方々の依り代が納められ、我々は拝殿から感謝を伝え共に生きてきたのです。
 
 
古代天皇は皇霊祭を行うため「顕斎(うつしいわい)」という神事を行ってきたのです、それは目に見えない神を存在させて行う神事で、神様に降りて頂く剣や依り代を用いて、神様を存在させてきたのです。
それが民間信仰として広がり、其々の地域や家庭で継承されてきました。
 
少し難しいかも知れませんが、このように日本は古来から神や霊的世界を顕在化させて、可視の見える世界も不可視の見えない世界も共栄してきました。
 
これが神道の「祖先崇拝」の奥義です。
 
ですから、お札を依り代にして神を降臨させ、神棚の扉の奥に神が存在する異空間を作り、そして神々の世界を五次元のように素晴らしい世界を顕在化させてきたのが我々の文化です。
 
なんとも、こんなに不可思議なことを行ってきたわけですから、曖昧というか何と言うか説明するのは難しい訳です。
 
特に明治以降はこのような本質を無視して国家神道を作り、土着信仰や斎主家系を解体し、仏教などの大陸思想のシンボル崇拝を取り入れたため、何のために行っているのか?その核となる部分や原点にあたる教えを無下にしたり、一子相伝たる奥義を失い、日本の継承文化を失ってしまったと言うのが現実的なところです。
 
 
私自身も時間がかかりましたが、仕事柄おかげさまで全国に顧客を持ち、各家に残る古文書や様々な様式や手掛かりから本来の日本の信仰の謎解きが出来ました、古神道の先生方とも出逢えさらに古式を取り戻しました。
 
祖先が子孫を見守る御座におさまり、我々を見守る神となって頂き、我々と嬉し愉しを共に感謝する毎日を過ごす、これが祖先崇拝です。
 
さらに自然の恵みに感謝し、山には山の神、土には土の神、風には風の神、森羅万象に神宿ること、そして自然との共生を大切にすること、これが自然崇拝です。
 
この自然崇拝と祖先崇拝で成り立っているのが、日本の文化の神道そのものであるのです。
 

この大樹は宇美八幡宮でした

 
では、長くなったので読み返しは後でします、とりあえず更新。
 
やっぱワンコ好きの狛犬ちゃんは一味違うね、写真ありがとうございます♪ハートうさぎクッキー
 
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