私の記事、特に歴史に関して今まで大変読み辛かったと思います。
それにもかかわらずついて来て下さった読者の皆さん、本当にありがとうございます。
今新たにホームページの準備をしているのですが、その前に貴重な覚書をそろそろまとめて移転先に整えて持っていけるように準備をしようと思います。
元記事より、脱線気味の内容を端折り大事なところだけまとめ、今回記事にしたいと思います。
ここからは、より現実的な痕跡の残る歴史として、伊香色男の足跡から見ていきたいと思います。
伊香色男が各地に残した痕跡
伊香色男は、神武天皇と同様の経路を通って奈良へ入った人物として伝えられています。
伊香色男の場合、移動の途中に滞在した土地で神事を行ったとされ、その痕跡を伝えるお宮や神社が各地に存在しています。
そのため、「どの時代に、どこにいて、何をしたのか」という足跡を比較的たどりやすい人物でもあります。
さらに伊香色男は、大物主、すなわちニギハヤヒを祀る「神班物者(かみのものあかつひと)」に任じられた人物としても記されています。
伊香色男と石上神宮
石上神宮は、日本最古級の神社の一つです。
物部氏にとって重要な祖神を祀る場所であり、歴代天皇が参拝していたことでも知られています。
その石上神宮の祭祀について、伊香色男の子である十千根、別名・武諸隅へ任されたことが伝えられています。
『先代旧事本紀』の天孫本紀では、伊香色雄について次のように記されています。
『旧』天孫本紀は、伊香色謎命の弟で、父は大綜杵命、母は高屋阿波良姫であるとする。
開化天皇の時代に大臣になり、崇神天皇の時代、神物を班たしめ、天社・国社を定め、物部八十手の作った祭神の供物をもって、八十万の群神を祭った。そのとき布都大神を祀る社を石上邑に遷し、天璽瑞宝も合わせて祀って、この総称である「石上大神」を氏神としたという。
山代県主の祖長溝の娘・直木姫、荒姫、および玉手姫、また、倭志紀彦の娘・真鳥姫を娶って、合計七男を生んだとある。
天皇本紀にも、開化八年二月に大臣に任じられたことがみえる。
『新撰姓氏録』にも、巫部宿禰をはじめ、多くの物部氏族がその祖として伊香色雄の名前を挙げており、「物部八十氏」を結ぶ系譜上重要な人物。
伊香色雄は祭事の際に、八十手(やそて)=物部氏の職能集団を率い、天神地祇および「八十万の神々を祭る神供物(幣帛)を作らせました」と記紀に記されています。
この時の八十手(やそて)=物部氏の職能集団は歴史的建造物を建て、その子孫は現在も連綿に続き健在しています。
八十手(やそて)=物部氏の職能集団の末裔は伊香色雄を祖神としてお祀りしています。
この八十手(やそて)のこと覚えておいてくださいね!
伊香色男と伊香色謎の関係
ここで、史料によって系譜の記載が異なります。
『先代旧事本紀』では、伊香色雄は伊香色謎命の弟とされています。
一方、物部系の系図には、この二人を夫婦として記し、その子を彦太忍信命とするものがあります。
彦太忍信命は、のちに武内宿禰へとつながる重要な人物です。
さらに『国造本紀』をたどると、伊香色男と彦太忍信命の親子関係を示す系譜が確認できます。
こちらは、その後の子孫がどこの土地を治めたのかという記録まで続いているため、後継者たちの歴史を具体的に追うことができます。
私はその点から、こちらの系譜の方に信憑性を感じています。
大彦命と伊香色男
『国造本紀』では、伊香色男と大彦命を結びつける系譜が示されています。
そして大彦命の子である弟彦は、岡山市周辺にあたる三野の国造に任命されたことが記されています。
その系統は、のちに軽島豊明朝の主帳県主「弟麻呂」へと続き、その戸籍も残されています。
軽島豊明朝とは、現在の奈良県橿原神宮近く、石川池周辺にあったとされる古代王朝です。
まさに南朝の吉野皇后の舞台にもつながる地域です!
また八爪命と弟彦を同一人物として示す系譜があり、弟彦が三野国造を賜ったことから、その子孫には三野氏を名乗る一族が多く見られます。
さらに複数の系譜を重ね合わせていくと、
彦坐王=開化天皇=伊香色男と、同一人物として結びつくことになります。
※但し、これは『古事記』の記載とは異なります。
このブログでは、『古事記』『日本書紀』の記述のみを基準とせず、国造系譜をはじめとする別系統の記録も重視しています。
伊香色男の子孫たちによる国造り
伊香色男の孫にあたる大兄彦、別名・素都乃奈美留は、越の国造を賜ったことが記されています。
また伊香色男の子である彦太忍信命については、武渟川別、すなわち建沼河命と同一人物として示す系譜があります。
さらに一説には、この人物をタケミナカタと同一とし、諏訪で祀られているとする伝承もあります。
私は、この説については本当ではないかと思っています。
竹内睦泰先生も、諏訪に武内宿禰が祀られているという趣旨のことを話されていました。
これについても、単なる間違いではないと思います。
『国造本紀』を見ると、彦太忍信命、すなわち建沼河命の孫にあたる武内宿禰の系統が、諏訪の国造へとつながっていることが示されているからです。
伊香色男の世代以降、その子や孫たちの世代を中心として、各地で国造りが行われていきます。
こうして国造の記録から歴史をたどっていくと、人々がどこからどこへ移動し、どの土地に定着していったのかという、輪郭のある歴史が見えてきます。
猪名部氏と伊香色男
ここで興味深いのが、後世の建築集団とのつながりです。
43代元明天皇から45代聖武天皇の時代にかけて、華々しい木造建築を手がけた棟梁たちがいました。
彼らは兵庫方面から奈良の大和へ向かい、
法隆寺
石山寺
興福寺
飛鳥寺
などの建築に関わり、その後、現在の三重県周辺へ定住したことが記録されています。
この棟梁一族が猪名部氏です。
そして猪名部神社の祭神として、伊香色男が祀られています。
つまり、その系譜をたどれば、彼らも物部につながります。
彼らこそ八十手(やそて)だったのです!
物部は、単に武力を担った氏族ではありません。
祭祀、建築、製鉄、農耕など、さまざまな技術と文化に関わっていたことが、各地の系譜や伝承から見えてきます。
聖武天皇の時代との重なり
さらに聖武天皇も、福岡の四王寺山方面から奈良へ移動した系譜が示されています。
皇子には安積親王がいます。
「安積」と書きながら「あさか」と読む。
ここには、海神族とのつながりを思わせるものがあります。
少なくとも、聖武天皇と大工の棟梁一族が、同じ時代に西から東へ移動していることは確認できます。
さらに正倉院には、当時、あるいはそれ以前の時代に属する戸籍が現存しています。
その戸籍に記された人々や地域を国造系譜と照合すると、国造に記された土地や人々と重なる部分があります。
ここから私は、一つの疑問を持っています。
第10代崇神天皇前後と、第45代聖武天皇前後の時代は、本当に現在考えられているほど大きく離れているのでしょうか?
なぜか700年代になると、戸籍や建築、土地の記録など、さまざまな形で具体的な証拠が残っています。
そこから推測できることは、「歴史年代を1000年ほど加えているのではないか」ということです。
物部の歴史を調べていくと、この「1000年のサバ」が浮き彫りになってくる。
だからこそ『先代旧事本紀』が偽書として扱われているのではないか。
私は、そのように考えています。
国津神と天津神は本当に別なのか
ここで、国津神と天津神について一度整理してみます。
一般には、
「出雲系と天孫系は別の勢力だった」
「両者は対立し、戦っていた」
と考えられることが多いでしょう。
しかし、実際に残された系図を比較すると、同じ祖先や人物へつながっていくことが分かります。
<海部宮司家系図>
始祖
彦火明(=ニギハヤヒ)-
-
佐手依姫(=市杵島姫命)
→
天香語山-
-
穂屋姫
→
天村雲と(兄妹)
豊秋津姫
<一般的な物部の系図>
始祖
天火明(=ニギハヤヒ)-
-
天道日女
→
天香具山(=高倉下)
<尾張系図>
始祖
天日神※天日神の娘である高照光姫に天火明が婿入りする
天火明(=ニギハヤヒ)-
-
高照光姫
→
天香具山(=高倉下)
<鹿島系図と天津系の系図>
天児屋根(=櫛真知)-
-
姫大神
→
天押雲根(=天村雲)
ここで、海部氏系図に現れる「天村雲」と重なります。
つまり、それぞれを別々の氏族として見ると異なる系統のように見えますが、系図を重ねていくと、同じ人物や祖先へつながっていくことが分かります。
東大阪市の枚岡神社のように、出雲井町に枚岡神社(春日神社)が存在することも、こうした系譜を見ると理解しやすくなるのではないでしょうか。
さらに石上神宮には、出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)という摂社があり、江戸時代「出雲建雄神」は石上神宮の御祭神 布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)の御子神と考えられ、そのため 「若宮(わかみや)」と呼ばれていました。
春日神社にも若宮が必ずありますが、もしかすると繋がっているかもですね!?
天村雲と製鉄・鍛冶の系譜
天村雲といえば剣を連想します。
そして剣は、古代において製鉄や鍛冶と深く結びついていました。
実際、鍛冶職人の系譜にも共通する祖先が現れます。
<桑名家系図>
天津彦根(=天児屋根)→
天久々斯比乃命
<製鉄・鍛冶の系図>
天津日子根(=天児屋根)-
-
下照姫
→
天目一箇神※製鉄と鍛冶の神(=天之麻比止都禰命・天戸間見命)-
-
道主日女
→
意富伊我都と(兄妹)
アカル姫
※このアカル姫と結婚したのが天之日矛と言って渡来人と言われており火男(ひょっとこ)のモデルにもなっているそうです。
高皇産霊神につながる系統
伊香色男たちと共通する祖先として、高皇産霊神につながる系譜もあります。
その子孫として天日鷲神が記されています。
古代の海神系・天族系の系譜をたどると、共通する祖神として高皇産霊神が現れます。
伊香色男神につながる穂積氏、忌部神、麻植神(おえのかみ)、さらに貴船神社や三島氏などにも、同様の信仰系統を見ることができます。
これらは、現在の神社信仰の多くの系統の根に位置しているとも考えられます。
<忌部系や八咫烏関連で見られる系譜>
天背男(天神立命)
→
天日鷲神(少彦名)
→
大麻比古
→天白羽鳥と(兄弟)天羽雷雄
<大中臣氏系図>
天児屋根-
-
姫大神
→
天種子命
→
国摩鹿島命-
-新川姫
→巨狭山命-
-弥麻志姫(忌部家)
→狭山彦と(兄弟)雷大臣
このように複数の氏族系図を重ねて見ると、物部、忌部、中臣、海部、尾張、鹿島など、一見すると別々に見える一族が、共通する祖先や婚姻関係によって結ばれていることが示されています。
伊香色男が最後にたどり着いた場所
始祖を祀る文化を始めた伊香色男が、最後にたどり着いた場所は、新潟の彌彦神社であると伝えられています。
伊香色男は、日本の国造の祖であると同時に、祭祀の祖とも言える人物です。
我々の始祖が最後にたどり着いたのは、豪華な都ではありません。
飢えから人々が苦しまない
お腹いっぱい美味しいお米が食べられる
そんな日本を、我々の始祖は作ろうとしていたのではないでしょうか。
西から東へ、最後にたどり着いた先は、豊かな農作物が作れる場所であったのではと私は考えます。
肇国の功神にして 「おやひこさま」と慕われる越後開拓の祖神
天香山命を奉祀する北越鎮護の名社として
上古より今日まで 高き尊き御神威に耀いています。
物部の歴史が伝えていること
北朝の天皇たちは、京都の都で権威を示しました。
しかし物部の歴史を見ていくと、それとは違う、日本人のもう一つの姿が見えてきます。
モノを作ること
田畑を耕すこと
鉄を作ること
建物を建てること
神を祀ること
祖先を祀ること
そして共同体を作り、次の世代へ技術と信仰を受け継いでいくこと。
私が言いたいのは、物部こそ、我々日本人の在り方を示しているのではないかということです。
その生き方や信仰、風習が今なお日本文化の中に根付いているにもかかわらず、現代の日本人は舶来の文化や宗教に心を奪われ、自分たちのルーツの在り方を認めようとしません。
浮き草は、常に強い流れに左右されます。
人も同じです。
自分がどこから来たのか分からなければ、強い影響力を持つものに流され続けることになります。
しかし、日本人は本来、浮き草でも根無し草でもありません。
そうならないために、始祖たちは「祖先崇拝」という共同体の文化を遺したのではないでしょうか。
少なくとも2000年近く受け継いできた文化であるにもかかわらず、今、その意味に向き合う人は少なくなっています。
ニセの歴史では、人は根付きません。
自分たちがどこから来たのか。
何を受け継いできたのか。
そこを知らなければ、自分が今どこに立っているのかも分からなくなる。
私にとって物部の歴史を辿ることは、単なる古代氏族の研究ではありません。
日本人が、自分たちの根を知ること。

















