どうせ分かって貰えない
どうせ上手くいかない
どうせ悪いようになる
だから何を言っても
解って貰えない
許して貰えない
そうやって
いつも逃げて
同じ過ちを繰り返す
やっちゃったもん勝ちのような
不誠実な踏み行い
そして無関心に辿り着く
本当に、今の世の中腐っています!
聖職者もいません。
誰だってスピリチュアルを語ります、そしてその感性が何処から来るのか?
ちゃんと調べようともしないでしょ。
それでも生きてゆけるのは、皆、資格や何かしら収入に繋がることが出来て、例え当たらなくても生活に支障のない暮らしが出来たんだと思います。
でも、世の中には霊感と言うモノだけで食べていかないといけない人間もいて、一部の人間には極限に追い込まれた感性なのか?それとも?
欧米では、霊感やスピリチュアルの研究が進んでいます。
そして様々な場面で報酬を得て活動できるような社会的地位が与えられています、ところが日本では都合の良い時だけ、例え国益を守るような重大なことでも相談し頼りながら成功報酬もなく、あるのは統計学の勉強会ですら公共施設を借りれない職業蔑視です。
どんな職種であっても露骨にイヤな顔をされることはないと思いますが、占い師は露骨にイヤな顔をされたり、ぺてん師扱いを受けたり、社会的に信用もなければ、業界自体も金儲けに利用するばかりですから、どんなにキャリアを積んでも綱渡りのような人生には違いありません。
電話占い師の大抵は出来高制で、売り上げの30%未満しか貰えません。
大きな会社は1/4~1/5です、1分250円に対して45円が相場です。
顧客は大きな負担、責任は占い師に持たせ、企業は誇大広告で儲ける、これが現実です。
今から10年くらい前は、日本には各界から信用を得ていた泉谷綾子先生がトップにいて、当時一時間50000円、江原先生で35000円と業界では実力や名声により相場が決まっていました。
ところが電話占いのブームにより、業界の相場が崩れ。
近年世界から招く又は地方から招いたセッションや高額セミナータイプの催しにより相場が羽上がり、信用に値いする対価と言うモノが崩れてしまいました。
アプリも気がつけば物凄く課金してしまっていたりです。
不景気なのに小口から大口にお金を使わすIT産業に、多額のお金が回っているハズなのに、まったく何処にお金が流れているのか?そう言った社会です。
苦労して得た信用をアプリ会社は上手く利用し、我々占い師の報酬は消費税の半分以下です。
ま、モデル料を頂けるだけでも有難いと思わないといけないのかも?だから、普通の占い師は基本儲かりません。
困窮者9割が現実です!笑
マーケット上の信用=対価ではありません!
だから、占い師に憧れたり、首尾良く儲けられると思ったら大間違いです。
それに占いは、プロになってからが本当の勉強の始まりです。
基礎から自分のデータを集めること、自分の感性の裏付けデータを持っていなければ信用に繋がりません。
私が、何故情報をメルマガや課金にしないか分かりますか?
常に世の中は変わり続け、常に學びはあるからです。人の悩みも時代により日々変わります、自分の能力を私利私欲にしないために書いています。
エゴ恋愛も書けば相談が減る、減って良いんです!時代の産物ですから、記事を読んで「気づき」を得て貰うのが一番です。
占いって、そんなものじゃないですから。
タロットのカードも、先日の記事でお分かりの通り、昔から本当に大切なことは絵柄に印すことで語り継がれています。
権力や財力を持つ支配者は、常に真実を覆うことに明け暮れ、歴史は支配者によって改竄されます。
占いは常に弱者に寄り添い生き続けましたから、本当の占い師は世の中の押し込められた善と、悪により封印された精神を受け継がなくてはなりません。
そしてどの預言者にも共通することは、恐れに「負けないで」って言うメッセージ。
悪の力は大きいけれど、しょせんスポットライトの下では何も出来ません。
世界が悪の力に負けそうな時こそ、人々の心眼が開くことによって人間の非道さに打ち勝つことが出来るんです。
心眼が神眼になるわけです。
世界中の預言者たちが同じことを言っています、自分の感性に繋がることの大切さを語っています。
預言がどうのこうのでなく、最終的に私たちの意識を変えることの大切さを知ってほしいです。
どんなに経済大国になっても、鳥インフルのニワトリの殺処分のように、人間を殺処分するような愚かな国が存在し、そう言った現実に向き合おうともしない社会がある。
何も出来なくても、人の意識は光となり悪を照らす神眼にもなります。
例え見えなくても、人は洞察も出来るし、人の悲しみを感じることも出来る。
無関心や何も感じない所に逃げ込まないこと!
鏡の向こう側の世界は、すべて繋がっています。
ちょっとダラダラ書き流しました、すみません後で読み返します。
言いたいことは、自分のスピリチュアルも立ち向かってゆかなければ開かれないということ。