あっという間に令和2年も残りあと1か月となりました。このブログを読んで下さっている皆さんの中には、私の週1回の身辺雑記「美佐日記」を読んで頂いている方もいらっしゃるかもしれませんが、今日は先週のものをこちらでもご紹介いたします。なお「美佐日記」は無料メルマガ『まぐまぐ軍事情報』にて毎週月曜日に配信しています!
今年の11月25日は三島由紀夫没後50年ということで、いわゆる「三島事件」をメディアでも多く取り上げられていたように思います。自衛隊にとっても衝撃的な出来事として記憶されているものです。
一方、同じ頃に発生したもう一つの事件について知っている人は自衛官でも非常に少なくなっています。それは「三島事件」の翌年である昭和46年8月21日に発生した、いわゆる「朝霞事件」のことです。
これは当時、東部方面武器隊・第311装輪車野整備隊に所属していた一場(いちば)哲雄・2曹(当時、陸士長)が警衛勤務中に左翼の2人組に襲われ殺害された事件です。一場2曹は前年の3月に入隊したばかりでした。
その日2040に「異常なし」の報告をした一場2曹は直後に侵入者を発見、すぐさま報告しようと送話器を手にするも、短刀で襲われ阻まれます。しかし一場2曹は果敢に立ち向かいました。
格闘の末、右の胸は2か所も肺を貫通するほど刺され、右手には5か所、左手の傷は骨まで至っていたといいます。後頭部は12か所も挫傷していたといい、最後まで戦い、責務を果たそうとしたことが分かっています。
犯行の目的は自衛隊の武器を強奪することでした。しかし、一場2曹の必死の反撃により犯人たち断念し、そのまま逃走したのです。
一場2曹は力をふり絞り、警衛司令に報告するため警衛所に向かいましたが、現場から100m進んだ場所で力尽き、出血多量で息を引き取ったのです。
前途有望な自衛官が殺害された、しかも駐屯地の中で、というショッキングな事件が今、自衛隊でも知る人が少なく、風化していると言わざるを得ません。「時代の産物」で片付けていい話しではないはずです。
また、世の中の多くの人は戦前や戦時中の日本について贖罪意識を持ったり、当時の人々に厳しいわりには、昭和という時代、わけても70年代という過去については、なぜか「あの頃はそんな時代だった」と、ノスタルジックな物語に美化しがちに見えるのはなぜなのでしょう。
私たち日本人がこのような後ろめたい過去を持っていることを、しっかり自覚し顧みる必要があると感じます。
そのためにも、読者の皆さんには改めて当時の空気について記したいと思います。
昭和40年代(つまり70年代)は「もはや戦後ではない」と言われた昭和30年代からの高度経済成長がピークを迎えていた頃で、GNPは数年の間に倍増を繰り返すような急成長ぶりをみせていました。
急激な進歩は大きな反動も生み、公害や物価の上昇などの生活を脅かすものは「経済成長が悪い」という発想が登場します。そしてそれが「反企業」「反政府」「反米」という考え方になって拡大していくことになります。
こうした、戦後に誕生した左翼集団は、既存の共産党や社会党が暴力を否定しているのに対し「新左翼」と呼ばれました。ご存じの通り直接行動や実力闘争で「暴力革命」を目指した集団です。
この暴力路線が学生運動、安保闘争などに広がり、そのうちに内ゲバや爆弾テロ事件も起こすようになっていったことはご存じの通りだと思います。
連合赤軍による「あさま山荘事件」では2人の機動隊員が殉職するなど、多くの現場で警察は多くの死傷者をしています。警察はこれら「極左暴力集団」との闘いの歴史を決して忘れることはないでしょう。
朝霞駐屯地における殺人は「赤衛軍」を名乗る日本大学と駒澤大学の大学生2人の実行犯が逮捕されただけでなく「朝日ジャーナル」と「週刊プレイボーイ」の記者が犯行の手助けをしたとして逮捕されています。犯人に金を渡すなど便宜を図り、その見返りにスクープ報道につながる情報提供を受けていたのです。
そして、若者たちを煽った事実上の事件の首謀者は、京都大学の助手でした。この人物は10年以上の逃亡の末に逮捕されましたが、これらの人たちは懲役15年の実行犯を筆頭にいずれも刑期を終えています。
この事件から様々な教訓が残りました。
まず、犯人が幹部自衛官の制服を盗んで駐屯地に堂々と入ったというチェックのゆるさ、単独で警衛にあたっていた体制などです。制服を盗まれるという、あってはならないことを許してしまったことは悔やみきれません。
遺族は、一場2曹が「襲ったのは仲間である自衛官」だと思って死んでいったことが悲しいと後に語っています。あまりにも残念です。
朝霞駐屯地には一場2曹の慰霊碑があり、今年の8月には東部方面後方支援隊が五十回忌を実施しました。また後支隊では9月から一場2曹が所属していた第104全般支援大隊が警衛に上番するにあたっては「一場隊」と呼ぶことにしたそうです。関係者の間では風化させない努力をしています。
しかし、最も残念なのは、自衛隊全体では、この事件を知る人が少なく、記録もほとんどないということです。組織として語り継ぐことが困難な状況です。自衛官が戦争ではなく、国内の過激派によって命を奪われたという事実を50年を迎えるにあたり多くの人に知ってもらいたいものです。