最上稲荷神社 〜 妙見堂 〜 秀吉水攻め最初の本陣跡 | 高橋みさ子のブログ

高橋みさ子のブログ

趣味のウォーキングを通して出逢った町や自然を
写真とともに楽しくご紹介しています。宜しくお願いします。

(最上稲荷神社 秀吉備中七城攻略 最初の本陣跡)

 

 

羽柴秀吉の水攻めで知られる備中高松城跡から北東に約2kmの地に、神仏習合の形態を色濃く残す最上(さいじょう)稲荷神社(岡山市北区)が鎮座します。

 

昔ながらの門前の土産物店や、秀吉が備中七城を攻略するため最初に本陣を構えた跡、第二次世界大戦中に不要不急線として廃線を余儀なくされたケーブルカー跡、パワースポットとして人気の八畳岩、奥之院のある龍王山山頂からの絶景など、見所満載の最上稲荷神社や奥之院を4回に分けてご紹介します。

 

今回は、門前の土産物店 〜 本殿 〜 妙見堂 〜 秀吉最初の本陣跡(一の丸)までを歩きます。

 

それでは本題に入りましょう。(^-^)

 

 

 

まず、地図で位置関係をお示しします。

 

国土地理院 電子地形図(タイル) (加筆は筆者による)

 

 

 

それではスタートです。最初は最上稲荷参道入口です。

 

 

 

 

 

イラストマップです。

 

(門前通りイラストマップ 作製 最上稲荷観光協会)

 

 

アーケードには土産物屋さんや食べ物屋さんが軒を連ねています。

 

名物はゆずせんべい。ゆずの爽やかな風味と砂糖の甘みのバランスが絶妙で、一口サイズのサクサク煎餅。後味さっぱり、止まらない美味しさです。

 

 

ゆずせんべいやまんじゅうの製造兼直売所が何軒も並んでいます。

 

訪れた2020年6月は新型コロナウィルスの影響で人通りもまばらでしたが、皆さん店を開けて頑張っておられました。

 

 

 

 

 

門前通りを抜けると仁王門が現れます。

 

 

 

 

 

仁王門をくぐって本殿でお参り。

 

 

 

 

 

境内イラストマップです。(何かの影が写り込んでしまいました。)

 

秀吉本陣跡や八畳岩にはおトイレがありませんので、ここで済ませておきます。

 

 

 

 

 

本殿の向かって右手に妙見堂への入口があり、秀吉本陣跡はここから入ります。

 

 

 

 

 

分岐点を右に進み・・・

 

 

 

 

 

本殿から徒歩4分ほどで妙見堂に着きました。

 

解説板に目を通してみましょう。

 

 

 

 

 

 

備中高松城水攻めの戦  秀吉が最初に陣を構えた地(一の丸)

 

 天正10年(1582年)4月、中国平定のため西進する羽柴秀吉軍は毛利氏手勢の備中七城を攻めるため、備中高松にたどりつき、備中高松城を見下ろす龍王斬に本陣を構え、砦を築きます。

 当山一の丸は秀吉が軍議を行った古跡と伝わります。

 開戦後、沼地の要害に守られた備中高松城を攻めあぐね本陣で悩む秀吉に、軍師・黒田官兵衛が「水攻め」を献策します。

この献策を取り入れた秀吉は、指揮するのに好都合の良い石井山に本陣を移し、築堤工事を開始するのです。

  

 *画像は、最上稲荷に保管されている戦前の作品「備中高松城水攻絵物語」の場面です。

 

また、境内から一の丸への途上にある妙見堂は、備中高松城の守護神と伝わる「妙見さま」がお祀りされています(6月第二日曜日に「妙見祭」が執行され、ご開帳されます)。

                                   最上稲荷総本山

 

 

 

 

 

 

本陣跡へは妙見堂前の階段を登り、先の分岐点を右に進みます。

 

妙見堂から本陣跡へは徒歩5分ほどです。

 

 

 

 

 

秀吉本陣跡に着きました。平らに開けた場所の傍らに「豊国天王」がお祀りされています。

 

 

 

 

本陣跡(一の丸)からの眺望です。

 

 

敵味方は周囲の小高い山々に布陣しましたので、軍勢の動向が把握できる好位置であることが分かります。

 

高松城跡の周りは今は田んぼですが、当時は沼地が広がっていたそうです。

 

沼地だった当時の光景を想像してみると、かの秀吉でさえ攻めあぐねていた様が分かるような気がします。


水攻めを決めた秀吉は、本陣を築堤場所や備中高松城に近い石井山に移します。

 

ここからも見えますね。

 

 

 

 

本陣跡(一の丸)の案内板です。

 

 

備中高松城水攻めの戦い 秀吉が最初に陣を構えた地(一の丸)

 

天正10年(1582)4月、中国平定のため西進する羽柴秀吉軍は毛利氏手勢の備中七城を攻めるため、備中高松城にたどりつき、備中高松城を見下ろす龍王山に本陣を構え、砦を築きます。当山一の丸は秀吉が軍議を行った古跡と伝わります。開戦後、沼地の要害に守られた備中高松城を攻めあぐね本陣で悩む秀吉に、軍師黒田官兵衛が「水攻め」を献策します。この献策を取り入れた秀吉は、指揮するのに都合のよい石井山に本陣を移し、築堤工事を開始。

 

足守川の水取口より東方向に蛙ヶ鼻(かわずがはな)まで3kmの堤防をわずか12日間で作ったと伝えられています。

水攻め後、城兵5000の命と引き替えに切腹した清水宗治の死により開城となり、中国大返し・山城の戦いを経て、秀吉は天下人への道を駆け上がっていきます。

当山はこの戦いの際に堂宇を失いましたが、ご本尊だけは別の場所に安置されたため、慶長6年(1601)日蓮宗寺院として再興され、現在に至ります。

                                   最上稲荷総本山

  奉納 株式会社ピュアクラフト  

 

 

 

 

最初の本陣跡(一の丸)の地図です。

 

 

 

 

 

 

後の本陣跡(石井山)です。

 

 

高松城主 清水宗治は、水に浮かぶ高松城から小舟を出し、その上で舞を舞い、辞世の歌「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」を詠んで切腹し、その散り際は武士の鑑とも言える見事なものだったと伝えられています。

 

その自刃の地は、石井山の本陣から北西に600m足らずの距離です。

 

さて、次回は八畳岩を目指します。(^-^)

 

(写真)岡山市北区 最上稲荷神社   2020年6月20日撮影