淡路町の震災記念碑(東京都千代田区) | 高橋みさ子のブログ

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東京の駿河台交差点脇に建つ関東大震災の記念碑です。
震災から一年を経た1924年9月1日に建立されました。

碑文の内容を要約すると「関東大震災で淡路町やその隣町は焼土と化したが、山下谷次氏が設立した東京商工学校の4階建鉄筋コンクリート校舎は高々とそびえて焼け残り、応急の避難所として大いに役に立ったので、謝意を表しイチョウの木を植えてこの碑を建てた」というものです。

関東大震災が発生したのは1923年(大正12年)9月1日 午前11時58分。
昼食の準備で火を使っている家庭が多ったことが被害を拡大させた一因と言われています。
当時は木造家屋が多く、あっという間に炎に包まれ火の手から逃げることで精一杯だったことでしょう。

焼け焦げた淡路町の街は、幸いにして一棟の鉄筋コンクリートが残されたことで避難所や物資の配給所として救済の手が差し伸べられる拠点になったということです。
その建物が東京商工学校(現 埼玉工業大学)の淡路町校舎であり、当時の人々にはどれほど心強いことであったでしょう。命を救われた思いではなかったでしょうか。


埼玉工業大学のホームページには 「この震災『記念碑』は、平成24年(2012)4月、千代田区(教育委員会)によって、文化財に指定されました。なおこの校舎は、戦後明治大学に売却され、工学部聖橋校舎として昭和40年(1965)まで使用され、その使命を終えました。」と記されています。


また、設立者で校長も務めた山下谷次氏(1872 ~1936年)は、戦前に衆議院議員(立憲政友会)を6期務めた政治家でもあったということです。


碑文の全文です。

「大正十二年九月一日 正午大震大火アリ 焼失家屋三十萬 死傷亦十萬ヲ超エ實二古今未曾有ノ大惨事ナリ 時ニ焼土ト化セシ帝都ノ中央神田二巍然として勇姿ヲ残セシハ實ニ山下谷次君ノ設立セル鉄筋混凝土四階建の東京商工学校ナリキ 吾人ハ之カ為ニ或ハ家財ノ安全ヲ保チ或ハ通信ノ便ヲ得或ハ居住ノ急ヲ救ヒ或ハ配給ノ恵ヲ受ケ真ニ天佑トシテ感激措ク能ワサル所ナリ 茲ニ公孫樹壹株ヲ植エ以テ謝恩ノ意ヲ表シ此ノ碑ヲ建テテ記念トス
大正十三年九月一日 淡路町壹 交友会 隣町 有志」

(用語の説明)
    巍然(ぎぜん) = 高くそびえ立っているさま
    混凝土 = コンクリート
    天佑 = 天の恵み
    措(お)く能(あた)わず = せずにはおれない
    茲に(ここに)
    公孫樹 = イチョウの木


関東大震災から90年余りを経た今日でも、空襲の惨禍をくぐり抜け、震災の記録や記憶を留めるべく東京にはこのような碑がちゃんと残されているのですね。

なお、文中のイチョウですが、今その姿はありません。

( 35.695951, 139.765196  石碑の緯度経度です。
googleマップにコピペすると場所が表示されますのでご参照下さい。
ストリートビューでもご覧になれますが、目を凝らさないと見逃します。)

(写真)東京都千代田区神田駿河台三丁目  2015.6.27 撮影


(C)Misako Takahashi 2015