野口英世 晩年の肖像写真 | 高橋みさ子のブログ

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        博物館明治村展示品「野口英世肖像写真」(所蔵 学校法人北里研究所)


写真は、1920年代 ニューヨークの「らかんスタジオ」で撮影された野口英世の肖像写真です。

らかんスタジオ(LAQUAN STUDIO)は、横浜で写真を学んだ後に渡米した写真家・鈴木清作(1893ー1964)がニューヨークに開いた写真館で、同じくニューヨークのロックフェラー医学研究所で研究に没頭する日々を送っていた野口英世は何度かこの写真館を訪れています。

鈴木清作が撮ったこの写真からは、見慣れた千円札の肖像画とはまた違った英世の人となりが感じられるのではないでしょうか。




写真の右下には、英世のサインと思われる文字や 1927 という数字が記されています。

字が一部消えていますので 「7」かどうか定かではないのですが、0でもなく、1でもなく、2でもなく・・と消去法でいくと「7」という可能性が一番高いように思います。

1927年(昭和2年)であれば、50才ということになります。

当時の英世は黄熱病の病原体を突き止める研究をしており、黄熱病患者の血液を採取するためアフリカに渡った英世は、無念にも自身も黄熱病に倒れ51年の生涯を閉じます。

英世は、39才の時に母に会うため日本に一時帰国し、それから再び日本の土を踏むことはありませんでしたから、ニューヨークから日本の北里柴三郎に書簡か何かと共にこの写真が送られたのでしょうか。


ところで、今年(2014年)の夏、丸二日を掛けて博物館 明治村(愛知県犬山市)に展示されている67軒の建物を全て見て回りました。暑い最中で、くたくたになりました。(笑)
その中で一番印象に残ったのは、一連の建物ではなく「北里研究所本館・医学館」に展示されていたこの一枚の写真でした。

展示用のガラスケースを突き抜けてこちらに迫り来る鬼気迫る眼差し。


密林の遺跡のような不可解極まりない帝国ホテル中央玄関よりも、聖ザビエル天主堂のステンドグラスの美しく澄んだ光よりも、野口英世の肖像写真がいつまでもいつまでも心に残りました。

博物館 明治村では、商用目的でなければ(個人使用であれば)、事前の許可がなくても建物や展示品を自由に撮影して構いませんので、英世の写真も撮らせて頂きました。

そして当ブログに掲載させて頂きたいという思いが徐々に募り、写真の所蔵者である学校法人 北里研究所に画像掲載の許可を願い出たところ、ご厚情によりご承諾を頂けたという次第です。

学校法人 北里研究所にはこの場をお借りして厚く御礼を申し上げます。有難うございました。
なお、本画像の複製・転載等は固くお断り申し上げますので、何卒ご承服下さい。


さて、英世がその正体を追っていた黄熱病の病原体は、光学顕微鏡では観察できないごくごく微小なウィルスですので、英世の瞳にその正体が映ることはありませんでした。

電子顕微鏡の登場がもう数年早ければ、英世は尚多くの貢献を人類にもたらし得たに違いないことでしょう。

「人類のために」その生涯を捧げた英世の生々しいまでに気迫ある姿が、この写真からは感じられるでのはないでしょうか。

               博物館 明治村「北里研究所本館・医学館」


(写真)愛知県犬山市 博物館 明治村  2014.8.15 撮影
    1、2枚目 「北里研究所本館・医学館」展示品 野口英世肖像写真     
    3枚目 「北里研究所本館・医学館」外観
(参考資料) LAQUAN STUDIO 「らかんスタジオの歴史」


(C) Misako Takahashi 2014