父の死 | カヌーイストなラガーマン

カヌーイストなラガーマン

川下り(リバーカヤック、ダッキー)
山登り(関西メイン)
ラグビー(最近は子供の練習)
鮎釣り
旅行記
以上を徒然なるままに書いています。

 11月19日 午後0時51分

 

父が亡くなりました  享年83歳でした

 

 肺気腫を患っており 長い闘病生活で、病院に何度か救急搬送されたり

 

危篤も昨年の10月と今年の9月にあったので、我々家族も覚悟しておりました

 

 入院先の病院から電話があった時 すぐに駆けつける事が出来ず

 

弟夫妻も仕事等で行けなく、母親も透析をしているので、すぐに行けない状況でした

 

結局 病院に着いたのは 死後から4時間経過した後でした

 

 父の亡骸を見た時は 自分でもびっくりするくらい涙が溢れ出ました

 

9月に危篤から回復した時は まだ長生きしてくれると思ったし、つい先日に

 

見舞いに行った時も いつも通りの反応だったので とても残念で、寂しいです

 

 死因は肺気腫ですが、 最期は眠るように亡くなったと医師から聞いて、

 

ホッとしました  死に顔も安らかで きれいな顔してました

 

よく頑張ってくれたと思います  感謝の気持ちでいっぱいです


 

 鳥取の地主の末っ子に生まれた父は 戦時中でも 食べるものに困らず 比較的裕福に

 

育ったようです

 

役場勤めをしていたのに さくっと辞めて 県会議員に立候補して見事落選して(笑)、

 

日雇いの仕事をしたり、広告の営業では得意先をたくさんとってきたそうです

 

 大阪に出て来てからは 新聞社の広告営業で賞をとったりと とにかく止まってない人

 

だったようです ってか 落ち着きのない人でしたわ(笑)

 

 何かやらないと、何かおもしろいことはないかと 仕事にせよ、趣味にせよ 

 

自分の興味の探求に走る人でした  お金には全く執着はないので、

 

手持ちにあればあるだけ使う人でした(笑)

 

 10歳だった兄を連れて母と再婚した時も 無職で たぶん お金もなかったんじゃないかな

 

ってか 子連れの無職の40のおっさんと 母親も よく結婚したなあ(笑)

 

 おおらか過ぎる程おおらかな母なので この父と結婚できたと思いますわ

 

なので、父は 母のことが 大好きで とても甘やかされて育てられてましたわ(笑)

 

 家庭を持ち、母が僕を身籠ったあたりからは いよいよお金もないので 興味の探求どころ

 

ではなくなったらしい  当たり前やね~(笑)

 

 古紙回収やら白タクやら とにかく日銭になる仕事をやっては乳母車などを買ったらしい

 

二つ歳の離れた弟もできたけど、 仕事は安定せず、相変わらず貧乏だったらしいです

 

 母の着物を質屋に入れたり~ 兄の自転車を売り飛ばしたり~ もしてたみたいね(笑)

 

 何度かの起業の後、なんとか食べていけるようになり 現在にいたるって感じです

 

そんな父だったので 子供としては かなりはらはらでしたわー

 

でも ひもじい思いは一切しなかったし かわいがられて育ちました

 

 対人関係において やや難あり(笑)の人で、誤解されることも多かったけど、

 

好かれる時はとことん好かれてましたね  おかげで抜群の営業力だったようです

 

 育ちと躾がいいからか、悪い事は...ちょっとくらいしか してないと思いますし、

 

道徳的には潔白な人でした 何より少年のように純粋でしたね

 

いつも家族の為に一生懸命でした ぶつかり合う事も多々ありましたが、

 

 僕が何かに失敗した時は 僕以上にくやしがってくれたし、 また何かを成し遂げた時は

 

僕以上に喜んでくれました

 

 僕は 彼のことが大好きでした  最近では照れもなく公言してたほどです


 

 葬儀ですが、 何度かの危篤で 我々家族は 心の準備もできており、 

 

既にどうするかの話し合いも済ませていたので、母と僕と弟の家族9人だけで執り行いました

 

おかげで スムーズで 和気あいあいと 誰にも気を遣わずに できました

 

あんなに緊張感なく、あんなに泣きまくったのは初めてです

 

 亡くなった土曜日のその時間帯は 大雨でしたが、 葬儀の日は 秋晴れの気持ちのいい日でした

 

紅葉の時期で、火葬場周辺も 色鮮やかで 父が好きだった信州が思い出される程でした

 

 

 息子3人とも父に似て問題児だったせいか、女の子が欲しかったみたいです。 でも代わりに 

 

かわいい盛りの孫3人が いつも 楽しく 明るく 賑やかに 遊んでくれてたので、 

 

寂しい思いをしないで済んだ事でしょう

 

 

生前 孫の顔を見ると 僕ら息子には見せた事のないような無防備な笑顔をしてたのが

 

思い出されます

 

 

 生後1ヶ月の息子は 何かを察してか、父が亡くなった当日はよく泣いてましたが、

 

葬儀が終わってからは よく笑うようになりました  なんや不思議なもんですね

 

 

亡くなる一週間前に 僕の生家を娘に見せに行ったり その近所を散策したのも

 

何かの虫の知らせだったのかもしれません

 

 

 何度か危篤になったのも ひょっとしたら リハーサルさせてくれてたのかもしれない

 

 一日おきに透析をしてる母が 最長でフリーになれるのが 土曜の午後から 月曜日までの2日半

 

土曜の午後一番に亡くなったのも ひょっとしたら

 

「土曜に死ぬから 月曜には葬式挙げれるやろ?」 と母に言ってたのかもしれない

 

 

 新生児は 生後1ヶ月までは極力 外出は避けたほうがいい

 

息子が産まれたのが10月13日、

 

「1ヶ月経過したからもういいか?」 と僕に言ってきてたのかもしれない

 

 

 49日は新年になるので、家族には 

 

「年末に済ませとけ、そしたら誰も呼ばんでいいから楽やぞ」 とも

 

 

そんな こっちの都合を考えて死んだのかもしれない  神経質で気をつかう性格だったので

 

おそらく そうなんじゃないかと僕は思います

 

「もう先行っとくわ、 今のほうがタイミングええからな、じゃあな」

 

だから、 その日のその時間帯なんだろうな

 

 勝手な解釈で極めて偶然かもしれないけど、そう思いたい

 

いろんな事務手続きを済ませていたこっちが浅ましく思え、すごく申し訳なく感じてます


 

 父との思い出はいっぱいあるけど、 よく喧嘩したのを思い出しますわ

 

お互い 歩み寄らないので いつも激しい口論だったなあ

 

 仕事に関しては 天才的なとこがあって 頭も切れる人だった

 

武勇伝も挙げればきりがないくらいだ

 

一緒にいると とても疲れる奴だったけど、サイコーに楽しい奴でもあったなあ

 

今思えば、もっとあの時ちゃんとしてあげたら、とか なんで あの時あんなんしたんやろ とか

 

すまない気持ちでいっぱいです

 

 面倒みてると思っていたけど、 いざ亡くなると、僕がしたことなんかよりも

 

とてつもないくらいのことを してもらってたと気づかされました

 

なんか 自分自身の事が嫌になりましたわ


 

「人は、嫌な事をされたのは覚えてるけど、人にやってしまったことは忘れてまうんやなー 

 

逆やったら 人間関係うまくいくのになあ」

 

 いろんな悔しい思いや、裏切られたこともあったんだと思います

 

そんな彼の言葉がとても印象的でした

 

 学校では決して教えてもらえない実学を 父からは随分と教わりました

 

とってもしんどかったけど(笑)...


 

 長男である兄が交通事故で亡くなった時も 親としてはたまらず辛く無念だったろうけど、

 

すぐ下に すねかじりが二人もいたから 悲しんでる間もなかっただろうし、仕事はまったなし

 

だったろうしなあ

 

 

 激しい性格とは反面 ハーモニカを吹いたり、絵を描いたりと芸術的なこともしてましたわー

 

この面は 僕はさっぱり遺伝してないけど

 

 

 写真はプロ顔負けで、よくボランティアで撮影してアルバムを作ってあげてましたね

 

好きな人にはとことん尽くすから、いろんな人に喜ばれて かわいがられてたみたいだ

 

 ともやー お前もついて来い! と よく連れ回されては 二人で一緒に写真撮りに行ったもんだ

 

年賀状も一枚一枚 丁寧に 絵を描いて 文をしたためてましたね

 

だから 毎年11月に入ったら 年賀状作りで忙しそうだったねえ(笑)


 

   高 雲 景 節 信 士

 

「高い雲の上の仏国土より  美しい景色を眺め  スケッチをしながら

 

 皆様の幸多き事も描写し  優しく見守られる事でしょう」

 

 そんな素敵な戒名を授かりました



 

 またこの人の元に産まれたいか?と聞かれれば、  いえいえご免被りますわ(笑)

 

今度は 息子か、親友として産まれてきてくださいな

 

また喧嘩したり 酒飲んだりしましょうや

 

 尊敬するか?と言われれば  いえいえ全然しませんよ(笑)

 

だけど、家族の事に関しては いつも一生懸命で いつも心配してくれてましたね

 

そんなところが大好きですよ

 

なので、 あなたが父で とても誇りに思います

 

 こんな おもしろくて 騒がしくて 愉快で かわいらしい 父親は そういないです


 

 亡くなったらホッとするかもと 正直どっかで思ってたけど、

 

寂しいのと 自己反省と なんや いろんな思い出があったりで

 

ぐちゃぐちゃで、泣きまくりです

 

自分が こんなに泣き虫とは思いませんでした

 


 

 お墓は 京都亀岡の西山霊園で、桜の時期に納骨する予定です

 

京都観光や亀岡方面に行く際には、

 

僕に そんな父親がいたってことを 少しでも思い起こしていただければ 最高に嬉しいです

 

寂しがり屋の面もあったので 本人も喜ぶと思いますし、

 

もう失言や暴言を吐く事もないですしね(笑)


 

 ぶつかり合う人間がいなくなると ほんと寂しいですわ

 

父親というよりも 親友って感じやったから 余計にさみしいですわ 

 

随分と孝行したと思ったけど、 今思えば全然足りなかったと感じますわー

 

 寝たきりでもいいから もっと長生きして欲しかった

 

でも、たぶん彼なりにがんばってくれたんだろうな

 

なんや しばらくは いろんなこと思い出して泣きまくりやわー

 

 ブログに書くのも躊躇したけど、 僕には こんな素晴らしい父親がいたってことを

 

皆さんに 知って欲しいと思いました


 

 にしても たばこ 吸い過ぎやねんー  俺を見習って さくっと止めれればよかったのにね

 

 体調悪くなってから 死ぬまで  実にスピーディーやったなあ

 

たった二年くらいの間でなあ...

 

 考えるよりも先に行動してた そんなあなたらしいよ(笑)

 

また面倒な事は一切残さず きれいに逝ったなあ  ありがとうね


 

いずれにせよ、今は安らかに眠ってください   また会える時を楽しみにしております

 

 

  長い間ありがとうございました   そして 本当にお疲れさまでした

 

俗名  北 村 節 (きたむら みさお)