三國屋物語 第55話
水揚(みずあ)げの夜、貴が待つ部屋へいくと、膝をそろえた貴が月明りのなか優美な輪郭(りんかく)を描いていた。椿油の香りが部屋にたちこめている。篠塚は貴に向かい膝をそろえると、束の間、その華奢(きゃしゃ)な影に目を凝らした。
「ひとつきいても良いか」
貴がふるえる声で「はい」と、答えてきた。
「以前、村の行事以外で、そなたに会ったことがあったか」
「昔、川で溺れそうになったことがございます。その時、助けてくださったのが雅人さまでございました」
「川……」
そういえば、そんな事があった……。
夏も終わりの頃。道場の帰り道。
小さな橋のうえで涼んでいると「溺れた。溺れた」と、騒がしい声がきこえてきた。すぐさま土手を駆けおりると同じ年頃の少女が川で溺れている。夢中で川の中頃までいき少女の身体をつかんだ。先日の大雨で水量がふえていたが篠塚は背が高かったので足がつかないほどの深さではない。とはいえ流れは急だ。篠塚はそのまま少女を抱きかかえると流れに足をとられないよう慎重に岸へと引きかえした。
「もう大丈夫だ。よう頑張ったの」
みると、岩にでもぶつけたのだろう手の甲にすり傷がある。篠塚は腰の印籠から塗り薬をとりだすと傷口にぬってやった。
少女は大粒の涙をこぼし礼をいってきた。よほどに怖かったのだろう、篠塚の袖を掴んだ小さな手が小刻みにふるえていた。八つの頃だったか十の頃だったか、おぼえていないほど昔のことだ。
あの時の少女……。
「お腰の印籠(いんろう)に竜胆(りんどう)の家紋がございました」
篠塚が失笑をもらした。
「あの印籠は祖父からもらったものだ。ひと頃、子供がてら腰にさげ、行く先々で周囲に自慢していた事があった」
「お父っつあんにきくと、篠塚家の家紋(かもん)にちがいないといわれました」
「そうか」
篠塚が褪(あ)せた記憶に意識をたゆらせていると、やわらかな手が頬にふれてきた。
「ずっとお慕いしておりました」
「………」
暗闇の中、貴の細い指が存在を確かめるかのように顔をなでまわしてくる。篠塚はじっとして貴のするがままに任せた。納得したのか、やがて貴は手をとめ小さく息をついた。
「あの日から今日まで片時も忘れたことはございません。今宵一夜だけ、雅人さまの妻にしてくださいませ」
語りつかれたのか、山岸が湯呑(ゆのみ)に手をのばし、冷めた茶を喉に流しこんだ。篠塚はいつのまにか縁側に端居して中庭を眺めている。瞬は胸に手をあて感動の余韻に浸っていた。
なんと美しい話なのだろう……。
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