三國屋物語 第56話
長年、言葉を交わすことなく一途に想ってきた相手に、たった一夜の情を求める。けっして結ばれない相手に恋をするというのは、さぞ切なく哀しいことだろう。肌をあわせれば、なおのこと忘れがたくなる。それでも貴は篠塚に想いをつげ一夜妻となった。自身の一番美しい時を篠塚にささげたのだ。篠塚はどんな想いで貴を抱いたのだろう。ほんとうに一夜限りと割り切ることができたのだろうか。
女ならではの美談だといえた。それにしても、先刻から感動と同居する、この生々しい悋気(りんき)はなんだろう。
「なぜ泣く」
篠塚が肩越しに瞬をみていた。
瞬はあわてて懐紙をとりだすと無造作に顔をぬぐった。
「さもあらん。近頃にはめずらしい美談だからの。相手が篠塚であったことが、お貴にとっての不幸よ」
山岸がしたり顔でいった。
「俺だから相手を引き受けたのだ」
「だからじゃ」
「なにが」
「女たちがよく唄っておるではないか。好いたお方のひまとるときは、壁に爪形、目に涙。いやなお方のひまとるときは、心すずしや西の風。おまえが手折(たお)らなければ、西の風も吹かなんだかも知れん」
「なにがいいたい」
「来月、祝言(しゅうげん)をあげるそうだ」
「お貴か」
「ああ」
「相手は」
「隣村の若衆の長だときいた」
篠塚が、一瞬、眉間(みけん)のあたりに悔恨(かいこん)とも安堵(あんど)ともとれる複雑な色をみせた。
「……そうか」
それからしばらくして山岸は藩邸に戻っていった。
山岸の後姿が通りに消えても篠塚はよどみなく流れる雑踏を眺めていた。舞いあがる砂埃(すなぼこり)が陽炎(かげろう)のようにみえる。瞬は自分に言いきかせるようにつぶやいた。
「お貴さんは、きっと幸せでございました」
「なぜ、そうおもう」
「一夜なりとも好きな殿方と情を交わすことができたのですから。不幸であるはずがございません」
篠塚が口元をほころばせ秋の空に視線をあげる。瞬もつられるようにして澄んだ空を見上げた。はぐれ雲がゆったりと空を渡っていく。隣には篠塚がいる。なのにこの孤独感はどこからくるのだろう。
貴はいい。一夜でも篠塚に抱かれることができた。自分は一夜さえも叶わない。
わたしはなにを考えているんだ……。
自身のなかに、ひそとして芽生えている淫らな願望に愕然としてしまう。
よろめくように後ずさる。篠塚がすばやく背中に手を添えてきた。
「どうした。気分でも悪いか」
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