scene25
食事をすませてレストランを出ると雨雲が広がっていた。「降りだしそうだな」と、篠塚が呟く。
「熱は下がったのか」
「はい」
「変な夢は見ないか?」
「え?」
「いや、いい……」
篠塚が、PTSDを心配しているのだとわかった。確かに昨夜、妙な夢をみたが、これも疲れによるものだと瞬は心の中でひとりごちた。
「この車、篠塚さんの?」
「ああ」
「前に乗せてもらった車は」
「あれは、取引先の重役連中にみせびらかせるための宣伝カーだ」
「宣伝カー?」
「ああ。圧しが強くなる」
瞬が微笑むと、篠塚が、「ようやく笑ったな」と、言った。
「………」
その夜、六時の稽古に出ると、篠塚の姿はまだなかった。
道場を見渡す。いるはずはないと考えながらもマケインの存在を確かめずにはいられなかった。数人の外国人と女子大生トリオ、高校生らしい白帯の門弟がひとり、そして、この時間には珍しく師範の山岸の姿もみえる。
いない……。
山岸が瞬に気づき「よお」と、声をかけてきた。瞬は山岸に一礼すると更衣室へとむかった。
玄関ドアが開き、篠塚が姿を現した。篠塚が、「機嫌はなおったか」と声をかけてくる。瞬は、「昼はご馳走様でした」と、ちぐはぐな返答をして更衣室のドアを開けた。更衣室の中に視線をむけると、窓を背に立っていた人物が、ゆっくりと瞬を振り返ってきた。瞬は瞠目(どうもく)したきり動けなくなった。瞬の異変に気づき、篠塚が大股に近づいてくる。篠塚は背後から瞬の両肩を掴むと、軽く揺さぶってきた。
「ちがう、マケインじゃない」
耳元で囁くように言われ、瞬は忘れていた呼吸をとりもどした。良く見ると、マケインとは似ても似つかない黒人男性だった。マケインより小柄で、肌の色もいくぶん違う。瞬は大きく息をはきだすと、ぎこちない足取りで更衣室へと入った。瞬の後から篠塚がはいってくる。男は小首を傾げると、「さようなら」と日本語で言って、篠塚と入れ違いに更衣室をでていった。瞬は棚に道着をいれたバッグを置くと、緩慢な動作で着替えにかかった。
「大丈夫ですから」
瞬はシャツのボタンをはずしながら、狼狽の色を悟られないよう、つとめて明瞭な声でいった。だが、篠塚には効果がなかったようだ。
「一度、カウンセリングを受けてみないか?」
「でも……」
言い終わるまえに、篠塚が瞬の腕をつかんで向き直らせた。
「同性に襲われたことを気にしているのか? なら、カウンセラーには単に暴力を受けたといえばいい」
「そんなんじゃ……」
「俺が気にしているのは、おまえが死の恐怖に直面させられたということだ」
「死の恐怖……」
表現が直接的に過ぎたと思ったのだろう、篠塚は別の言葉をさがすように視線を泳がせた。
ほのかな甘い香りと腕に触れている篠塚の手のぬくもり……。速かった鼓動が、うそのようにひいていく。このまま篠塚の胸にすがりつきたい衝動にかられた。もう自問自答することさえ無意味だった。自分が篠塚に寄せる情は憧憬や敬慕の念ではない、男女のそれと同じ、欲情をともなう恋愛感情そのものだ。
ありえない……。
目線の高さに、篠塚の形の良い唇があった。瞬は目を背けるようにして、「大丈夫ですから」と、ふたたび言った。
「その言葉はもういい。少しは気を許したらどうなんだ」
いくぶん尖った口調だ。瞬には、篠塚の言っている言葉の意味がわからなかった。
「どうしてそう、かたくなに拒む。これまでもそうだ。俺がどれだけ真剣に話そうが、おまえは上(うわ)っ面(つら)での会話しかしてこない。俺がそんなに信用できないか」
「ぼくは別に……」
「怖い時は怖いと言え。なんでそこまで意地をはるんだ」
篠塚は、なにをそんなに怒っているのだろう。篠塚を避けたおぼえはない。むしろ、篠塚にとって誰よりも身近な存在になりたいと切望しているのは瞬自身なのだ。
怒ってるんじゃない、責任を感じてるんだ……。
自分が遅れさえしなければ、あの事件は未然に防げたと篠塚は考えているのだ。赴任先のニューヨークに帰るまえに、腕のいい精神科医に瞬をひきあわせることで自責の念から逃れようとしている。後顧(こうこ)の憂いを絶とうとしている。そう考えると、瞬にたいする篠塚の行動に納得がいった。しかしそれは、好意をよせている篠塚に、同性に襲われた惨めな自分を認識させられたようで、いたたまれない気分だった。
「篠塚さんに責任はありませんから」
「そんなことを言っているんじゃない」
「本当に気にしないでください。それに、自分のことは自分が一番よくわかりますから」
「……俺には頼れない。そういうことか」
「ですから」
「わかった。……もういい」
篠塚の手が離れ、ぬくもりが去った。道着をつけ終え更衣室をでるまで、篠塚は一言も話さなかった。