scene26
すぐに稽古が始まった。篠塚は普段と変わらない態度で指導をしてくれた。技における足捌(あしさば)き、相手の体(たい)の崩しかた、技を効かす時のコツ。技の理論と変化技への応用までを事細かに説明してくれる。これまでの稽古において、瞬が篠塚の知識の豊富さに驚いたのは一度や二度ではない。篠塚の武道家としてのレベルがどれほどのものかは知らないが、インターハイまでいった実力からすると自分の道場を持っていても不思議ではないと思った。
また……。
先刻から気になっていた。稽古が始まってから篠塚は一度も瞬と目を合わさない。合ったと思ったら次の瞬間には視線が他に移っている。
避けられている……?
怒っているのだろうか。それとも呆れているのだろうか。いずれにしても、これまでのような関係には戻れないような気がした。
次の日の稽古も、篠塚の態度は変わらなかった。稽古以外で話すことは何もない。篠塚に声を掛けようにも何を話していいか思いつかないのだ。考えてみると、瞬はこれまでの二十三年間、自分から他者に取り入ろうとした記憶がない。すべての関係において利害関係がないと言ったら聞こえはいいが、他者に深入りすることでしか得られない血の通った豊かな交流を、瞬は知らずに生きてきたともいえる。
あくる日の昼時、会社近くのレストランで食事をとっていると、佐々木が後からやってきて瞬の前に座った。ウェイトレスにランチを注文してグラスの水を一気に飲み干す。すぐに「おかわりちょうだい」と声をかけ、ウェイトレスの失笑を誘った。佐々木はいつも明るい。誰とでも気軽に打ちとけあい上司にも好かれるタイプだ。瞬は時々、佐々木が羨ましくなることがあった。
瞬が浮かない面持ちで頬杖ついていると、佐々木が、「どうした?」と声をかけてきた。
「佐々木は、先輩とかに好かれるタイプだよね」
「まあね。それなりに努力してるから」
「どんな?」
「いつも頼りにしてますよって態度でしめす」
「どうやって?」
「いろいろあるんじゃない? 相手によっても、やりかた違うし」
「……そうなんだ」
「なに? それって、ひょっとして篠塚さんに取り入ろうって魂胆(こんたん)?」
ある意味、図星といえた。
「違うよ……篠塚さんは、道場の先生ってだけだから。それに、もうすぐニューヨークに帰っちゃうし」
言って、瞬は自分の言葉に落胆した。そうなのだ、篠塚は近くニューヨークに帰ってしまう。正確な日付は聞いていない。いや、聞きたくなかった。あるいは、篠塚とこのまま疎遠になったほうが別れの痛手は和らぐかもしれない。道場の師範と門弟という関係だけなら、数年後、笑顔で再会することもできるような気がした。
佐々木の携帯電話が鳴った。佐々木が携帯電話を開き「誰だ?」と言って電話にでる。「はい、佐々木です」と名乗り、一瞬目をしばたかせたかと思うと勢い良く立ちあがった。周囲の客が何事かと振りかえる。
「あ……はい! はい、そうです! は?」
言うと、佐々木は瞬の顔をちらと見て苦笑すると、電話をしながら店の外にでていってしまった。そこへ、注文した食事が運ばれてきた。瞬は湯気のたつ料理を見下ろしながら佐々木が帰ってくるのを待った。
そういえば、あれから夢を見ていない……。
やはり疲れが原因だったのだろう。篠塚の心配は杞憂に終りそうだ。機をみて篠塚に話しておこうと思った。せめて、安心してニューヨークに帰って欲しかった。
佐々木が帰ってきた。瞬に笑いかけ、さっそく料理に手をつけだす。瞬は気だるげにフォークを持つと、そえてあるマカロニサラダを口に運んだ。