あいかわらず「地獄」は出てきませんね
【4】 三輩念仏往生の文。
「仏、阿難に告げたまはく、〈十方世界の諸天・人民、それ心を至しかの国
に生ぜんと願ずることあるに、おほよそ三輩あり。その上輩は、家を捨て欲を
棄てしかも沙門となりて、菩提心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念じ、も
ろもろの功徳を修してかの国に生れんと願ふ。これらの衆生は、寿終る時に臨
みて、無量寿仏、もろもろの大衆とその人の前に現じて、すなはちかの仏に随
ひてその国に往生して、すなはち七宝の華のなかにおいて自然に化生して不退
転に住す。智慧勇猛、神通自在なり。このゆゑに阿難、それ衆生ありて今世に
おいて無量寿仏を見たてまつらんと欲はば、無上菩提の心を発し、功徳を修行
しかの国に生ぜんと願ずべし〉と。
仏、阿難に語りたまはく、〈その中輩は、十方世界の諸天・人民、それ心を
至してかの国に生ぜんと願ずることあるに、行じて沙門となることあたはずと
いへども、大きに功徳を修し、まさに無上菩提の心を発して、一向にもつぱら
無量寿仏を念じ、多少善を修し、斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せ
しめ、 を懸け、灯を燃し、華を散じ、香を焼き、これをもつて回向してかの
国に生ぜんと願ずべし。その人終りに臨みて、無量寿仏その身を化現して、光
明・相好つぶさに真仏のごとし。もろもろの大衆とその人の前に現じたまふ。
すなはち化仏に随ひてその国に往生して、不退転に住す。功徳・智慧次いで上
輩のもののごとし〉と。
仏、阿難に告げたまはく、〈その下輩は、十方世界の諸天・人民、それ心を
至してかの国に生ぜんと欲することあるに、たとひもろもろの功徳をなすこと
あたはずとも、まさに無上菩提の心を発して、一向に意をもつぱらにして、乃
至十念無量寿仏を念じて、その国に生ぜんと願ずべし。もし深法を聞き歓喜信
楽して、疑惑を生ぜず、乃至一念かの仏を念じ、至誠心をもつてその国に生ぜ
んと願ず。この人終りに臨みて、夢にかの仏を見て、また往生することを得。
功徳・智慧次いで中輩のもののごとし〉」(大経・下)と。
わたくしに問ひていはく、上輩の文のなかに、念仏のほかにまた捨家棄
欲等の余行あり。中輩の文のなかに、また起立塔像等の余行あり。下輩の
文のなかに、また菩提心等の余行あり。なんがゆゑぞただ念仏往生といふ
や。答へていはく、善導和尚の『観念法門』にいはく、「またこの『経』
(大経)の下巻の初めにのたまはく、〈仏(釈尊)、一切衆生の根性の不同を
説きたまふに、上・中・下あり。その根性に随ひて、仏、みなもつぱら無
量寿仏の名を念ぜよと勧めたまふ。その人命終らんと欲する時、仏(阿弥
陀仏)、聖衆とみづから来りて迎接したまひて、ことごとく往生を得しめ
たまふ〉」と。この釈の意によるに、三輩ともに念仏往生といふ。
問ひていはく、この釈いまだ前の難を遮せず。なんぞ余行を棄ててただ
念仏といふや。答へていはく、これに三の意あり。一には諸行を廃して念
仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。二には念仏を助成せんがため
にしかも諸行を説く。三には念仏・諸行の二門に約して、おのおの三品を
立てんがためにしかも諸行を説く。
一に、諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふ
は、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益
を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら
弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを
解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十
八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるに
あり。しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願による
がゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。「一向」は二向・三
向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一
は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗
寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺
のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の
両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・
下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、
すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。すでに一向とい
ふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に
「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐる
がゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたき
か。
二に、念仏を助成せんがためにこの諸行を説くとは、これにまた二の意
あり。一には同類の善根をもつて念仏を助成す。二には異類の善根をもつ
て念仏を助成す。初めに同類の助成とは、善導和尚の『観経の疏』(散善
義)のなかに、五種の助行を挙げて念仏一行を助成すこれなり。つぶさに
上の正雑二行のなかに説くがごとし。次に異類の助成とは、先づ上輩につ
きて正助を論ぜば、「一向にもつぱら無量寿仏を念ず」(大経・下)とはこ
れ正行なり、またこれ所助なり。「家を捨て欲を棄て沙門となりて、菩提
心を発す」(同・下)等はこれ助行なり、またこれ能助なり。いはく往生の
業には念仏を本となす。ゆゑに一向に念仏を修せんがために、「家を捨て
欲を棄て沙門となりて、また菩提心を発す」(大経・下)等なり。就中出
家・発心等は、しばらく初出および初発を指す。念仏はこれ長時不退の行、
むしろ念仏を妨礙すべけんや。中輩のなかに、また起立塔像・懸 ・燃
灯・散華・焼香等の諸行あり。これすなはち念仏の助成なり。その旨『往
生要集』(中)に見えたり。いはく助念方法のなかの方処供具等これな
り。下輩のなかに、また発心あり、また念仏あり。助正の義前に准じて知
るべし。
三に、念仏・諸行に約して、おのおの三品を立てんがためにしかも諸行
を説くといふは、先づ念仏に約して三品を立つとは、いはくこの三輩のな
かに、通じてみな「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。これすなはち
念仏門に約してその三品を立つ。ゆゑに『往生要集』(下)の念仏証拠門
にいはく、「『双巻経』(大経)の三輩の業、浅深ありといへども、しかも通
じてみな〈一向専念無量寿仏〉といふ」と。[感師(懐感)これに同じ。]次に
諸行門に約して三品を立つとは、いはくこの三輩のなかに通じてみな菩提
心等の諸行あり。これすなはち諸行に約してその三品を立つ。ゆゑに『往
生要集』(下)の諸行往生門にいはく、「『双巻経』(大経)の三輩またこ
れを出でず」と。{以上}
おほよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏
のための所以なり。初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸
行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。次の義はすなはち
これ助正のために説く。いはく念仏の正業を助けんがために諸行の助業を
説く。後の義はすなはちこれ傍正のために説く。いはく念仏・諸行の二門
を説くといへども、念仏をもつて正となし、諸行をもつて傍となす。ゆゑ
に三輩通じてみな念仏といふ。ただしこれらの三義は殿最知りがたし。請
ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。いまもし善導によらば、初め(廃立)
をもつて正となすのみ。
問ひていはく、三輩の業みな念仏といふ。その義しかるべし。ただし
『観経』の九品と『寿経』(大経)の三輩と、本これ開合の異なり。もしし
からば、なんぞ『寿経』の三輩のなかにはみな念仏といひ、『観経』の九
品に至りて上・中の二品には念仏を説かず、下品に至りてはじめて念仏を
説くや。答へていはく、これに二の義あり。一には問端にいふがごとく、
『双巻』(大経)の三輩と『観経』の九品とは開合の異ならば、これをもつ
て知るべし、九品のなかにみな念仏あるべし。いかんが知ることを得る。
三輩のなかにみな念仏あり。九品のなかなんぞ念仏なからんや。ゆゑに
『往生要集』(下)にいはく、「問ふ。念仏の行、九品のなかにおいてこ
れいづれの品の摂ぞや。答ふ。もし説のごとく行ぜば、理上上に当れり。
かくのごとくその勝劣に随ひて九品を分つべし。しかるに『経』(観経)に
説くところの九品の行業はこれ一端を示す。理実に無量なり」と。{以上}ゆ
ゑに知りぬ、念仏また九品に通ずべしといふことを。二には『観経』の意、
初め広く定散の行を説きて、あまねく衆機に逗ず。後には定散二善を廃し
て、念仏一行に帰す。いはゆる「汝好持是語」等の文これなり。その義下
につぶさに述ぶるがごとし。ゆゑに知りぬ、九品の行はただ念仏にありと
いふことを。
【5】 念仏利益の文。
『無量寿経』の下にのたまはく、「仏、弥勒に語りたまはく、〈それかの仏
の名号を聞くことを得ることありて、歓喜踊躍し、乃至一念せん。まさに知る
べし、この人は大利を得となす。すなはちこれ無上の功徳を具足す〉」と。
善導の『礼讃』にいはく、
「それかの弥陀仏の名号を聞くことを得ることありて、
歓喜して一念を至すもの、みなまさにかしこに生ずることを得べし」と。
わたくしに問ひていはく、上の三輩の文に准ずるに、念仏のほかに菩提
心等の功徳を挙ぐ。なんぞかれらの功徳を歎めずして、ただ独り念仏の功
徳を讃むるや。答へていはく、聖意測りがたし。さだめて深き意あらんか。
しばらく善導の一意によりてしかもこれをいはば、原それ仏意はまさしく
ただちにただ念仏の行を説かんと欲すといへども、機に随ひて一往菩提心
等の諸行を説きて、三輩の浅深不同を分別す。しかるをいま諸行において
はすでに捨てて歎めたまはず。置きて論ずべからざるものなり。ただ念仏
の一行につきてすでに選びて讃歎す。思ひて分別すべきものなり。もし念
仏に約して三輩を分別せば、これに二の意あり。一には観念の浅深に随ひ
てこれを分別す。二には念仏の多少をもつてこれを分別す。浅深は上に引
くところのごとし。「もし説のごとく行ぜば、理上上に当れり」(往生要
集・下)と、これなり。次に多少は、下輩の文のなかにすでに十念乃至一
念の数あり。上・中の両輩はこれに准じて随ひて増すべし。『観念法門』
にいはく、「日別に念仏一万遍、またすべからく時によりて浄土の荘厳を
礼讃すべし。はなはだ精進すべし。あるいは三万・六万・十万を得るもの
は、みなこれ上品上生の人なり」と。まさに知るべし、三万以上はこれ
上品上生の業、三万以去は上品以下の業なり。すでに念数の多少に随ひ
て品位を分別することこれ明らけし。いまこの「一念」といふは、これ上
の念仏の願成就(第十八願成就文)のなかにいふところの一念と下輩のなか
に明かすところの一念とを指す。願成就の文のなかに一念といふといへど
も、いまだ功徳の大利を説かず。また下輩の文のなかに一念といふといへ
ども、また功徳の大利を説かず。この〔流通分の〕一念に至りて、説きて大
利となし、歎めて無上となす。まさに知るべし、これ上の一念を指す。こ
の「大利」とはこれ小利に対する言なり。しかればすなはち菩提心等の諸
行をもつて小利となし、乃至一念をもつて大利となす。また「無上の功
徳」とはこれ有上に対する言なり。余行をもつて有上となし、念仏をもつ
て無上となす。すでに一念をもつて一無上となす。まさに知るべし、十念
をもつて十無上となし、また百念をもつて百無上となし、また千念をもつ
て千無上となす。かくのごとく展転して少より多に至る。念仏恒沙なれば、
無上の功徳また恒沙なるべし。かくのごとく知るべし。しかればもろもろ
の往生を願求せん人、なんぞ無上大利の念仏を廃して、あながちに有上
小利の余行を修せんや。
【6】 末法万年の後に余行ことごとく滅し、特に念仏を留めたまふ文。
『無量寿経』の下巻にのたまはく、「当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲
をもつて哀愍して、特にこの経を留めて止住すること百歳ならしめん。それ衆
生ありてこの経に値ふもの、意の所願に随ひてみな得度すべし」と。
わたくしに問ひていはく、『経』(大経・下)にただ「特留此経止住百歳」
といひて、まつたくいまだ「特留念仏止住百歳」といはず。しかるにい
まなんぞ「特留念仏」といふや。答へていはく、この経の詮ずるところま
つたく念仏にあり。その旨前に見えたり。再び出すにあたはず。善導・懐
感・恵心(源信)等の意またかくのごとし。しかればすなはちこの経の「止
住」は、すなはち念仏の止住なり。しかる所以は、この経に菩提心の言あ
りといへども、いまだ菩提心の行相を説かず。また持戒の言ありといへど
も、いまだ持戒の行相を説かず。しかるに菩提心の行相を説くことは広く
『菩提心経』等にあり。かの経先に滅しなば、菩提心の行なにによりてか
これを修せん。また持戒の行相を説くことは広く大小の戒律にあり。かの
戒律先に滅しなば、持戒の行なにによりてかこれを修せん。自余の諸行こ
れに准じて知るべし。ゆゑに善導和尚の『往生礼讃』にこの文を釈してい
はく、
「万年に三宝滅しなば、この『経』(大経)住すること百年あらん。そ
の時に聞きて一念せん、みなまさにかしこに生ずることを得べし」と。
またこの文を釈するに略して四の意あり。一には聖道・浄土二教の住滅
の前後、二には十方・西方二教の住滅の前後、三には兜率・西方二教の住
滅の前後、四には念仏・諸行二行の住滅の前後なり。一に聖道・浄土二教
の住滅の前後といふは、いはく聖道門の諸経は先に滅す、ゆゑに「経道滅
尽」といふ。浄土門のこの経は特り留まる、ゆゑに「止住百歳」といふ。
まさに知るべし、聖道は機縁浅薄にして、浄土は機縁深厚なりといふこと
を。二に十方・西方二教の住滅の前後といふは、いはく十方浄土往生の諸
教先に滅す、ゆゑに「経道滅尽」といふ。西方浄土往生はこの経特り留ま
る、ゆゑに「止住百歳」といふ。まさに知るべし、十方浄土は機縁浅薄
にして、西方浄土は機縁深厚なり。三に兜率・西方二教の住滅の前後とい
ふは、いはく『上生』・『心地』等の上生兜率の諸教は先に滅す、ゆゑに
「経道滅尽」といふ。往生西方のこの経特り留まる、ゆゑに「止住百歳」
といふ。まさに知るべし、兜率は近しといへども縁浅く、極楽は遠しとい
へども縁深し。四に念仏・諸行二行の住滅の前後といふは、諸行往生の
諸教は先に滅す、ゆゑに「経道滅尽」といふ。念仏往生はこの経特り留ま
る、ゆゑに「止住百歳」といふ。まさに知るべし、諸行往生は機縁もつ
とも浅く、念仏往生は機縁はなはだ深し。しかのみならず、諸行往生は
縁少なく、念仏往生は縁多し。また諸行往生は近く末法万年の時を局る。
念仏往生は遠く法滅百歳の代に霑ふ。
問ひていはく、すでに「われ慈悲をもつて哀愍して、特にこの経を留め
て止住すること百歳ならん」(大経・下)といふ。もししからば釈尊、慈悲
をもつてしかも経教を留めたまはんに、いづれの経いづれの教か、しか
も留まらざらんや。しかるをなんぞ余経を留めずして、ただこの経を留め
たまふや。答へていはく、たとひいづれの経を留むといへども、別して一
経を指さば、またこの難を避らじ。ただ特にこの経を留むる、その深き意
あるか。もし善導和尚の意によらば、この経のなかにすでに弥陀如来の念
仏往生の本願(第十八願)を説けり。釈迦、慈悲をもつて念仏を留めんが
ために、殊にこの経を留めたまふ。余経のなかにはいまだ弥陀如来の念仏
往生の本願を説かず。ゆゑに釈尊、慈悲をもつてこれを留めたまはず。お
ほよそ四十八願みな本願なりといへども、殊に念仏をもつて往生の規とな
す。ゆゑに善導釈していはく(法事讃・上)、
「弘誓、門多くして四十八なれども、ひとへに念仏を標してもつとも
親しとなす。
人よく仏(阿弥陀仏)を念ずれば、仏還りて念じたまふ。専心に仏を想
へば、仏、人を知りたまふ」と。{以上}
ゆゑに知りぬ、四十八願のなかに、すでに念仏往生の願(第十八願)をも
つて本願中の王となすといふことを。ここをもつて釈迦の慈悲、特にこの
経をもつて止住すること百歳するなり。例するに、かの『観無量寿経』
のなかに、定散の行を付属せずして、ただ孤り念仏の行を付属したまふが
ごとし。これすなはちかの仏願に順ずるがゆゑに、念仏一行を付属す。
問ひていはく、百歳のあひだ念仏を留むべきこと、その理しかるべし。
この念仏の行は、ただかの時機に被らしむとやなさん、はた正像末の機に
通ずとやなさん。答へていはく、広く正像末法に通ずべし。後を挙げて今
を勧む。その義知るべし。
【7】 弥陀の光明余行のものを照らさず、ただ念仏の行者を摂取する文。
『観無量寿経』にのたまはく、「無量寿仏に八万四千の相あり。一々の相に
八万四千の随形好あり。一々の好に八万四千の光明あり。一々の光明あまねく
十方世界の念仏の衆生を照らし、摂取して捨てたまはず」と。
同経の『疏』(定善義)にいはく、「〈無量寿仏〉より下〈摂取不捨〉に至る
までよりこのかたは、まさしく身の別相を観ずるに、光有縁を益することを明
かす。すなはちその五あり。一には相の多少を明かし、二には好の多少を明か
し、三には光の多少を明かし、四には光の照らす遠近を明かし、五には光の及
ぶところの処、ひとへに摂益を蒙ることを明かす。問ひていはく、つぶさに衆
行を修してただよく回向すれば、みな往生を得。なにをもつてか仏の光あまね
く照らすにただ念仏者を摂する、なんの意かあるや。答へていはく、これに三
義あり。一には親縁を明かす。衆生、行を起して口につねに仏を称すれば、仏
すなはちこれを聞きたまふ。身につねに仏を礼敬すれば、仏すなはちこれを見
たまふ。心につねに仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまふ。衆生仏を憶
念すれば、仏また衆生を憶念したまふ。彼此の三業あひ捨離せず。ゆゑに親縁
と名づく。二には近縁を明かす。衆生仏を見んと願ずれば、仏すなはち念に応
じて現じて目の前にまします。ゆゑに近縁と名づく。三には増上縁を明かす。
衆生称念すれば、すなはち多劫の罪を除きて、命終らんと欲する時、仏、聖
聚とみづから来りて迎接したまふ。もろもろの邪業繋よく礙ふるものなし。ゆ
ゑに増上縁と名づく。自余の衆行はこれ善と名づくといへども、もし念仏に比
ぶれば、まつたく比校にあらず。このゆゑに、諸経のなかに処々に広く念仏の
功能を讃む。『無量寿経』の四十八願のなかのごときは、ただもつぱら弥陀
の名号を念じて生ずることを得と明かす。また『弥陀経』のなかのごときは、
一日七日もつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と。また十方恒沙の諸仏
の虚しからずと証誠したまふ。またこの『経』(観経)の定散の文のなかには、
ただもつぱら名号を念じて生ずることを得と標せり。この例一にあらず。広く
念仏三昧を顕しをはりぬ」と。
『観念法門』にいはく、「また前のごときの身相等の光一々あまねく十方世
界を照らすに、ただもつぱら阿弥陀仏を念ずる衆生のみありて、かの仏の心光
つねにこの人を照らして、摂護して捨てたまはず。すべて余の雑業の行者を照
摂することをば論ぜず」と。
わたくしに問ひていはく、仏の光明ただ念仏者を照らして、余行のもの
を照らさざるはなんの意かあるや。答へていはく、解するに二の義あり。
一には親縁等の三の義、文のごとし。二には本願の義、いはく余行は本願
にあらざるがゆゑに、これを照摂したまはず。念仏はこれ本願のゆゑに、
これを照摂したまふ。ゆゑに善導和尚の『六時礼讃』にいはく、
「弥陀の身色は金山のごとし。相好の光明は十方を照らす。
ただ仏を念ずるのみありて光接を蒙る。まさに知るべし、本願もつと
も強しとなす」と。{以上}
また引くところの文(定善義)のなかに、「自余衆善雖名是善若比念仏者
全非比校也」といふは、意のいはく、これ浄土門の諸行に約して比論する
ところなり。念仏はこれすでに二百一十億のなかに選取するところの妙
行なり。諸行はこれすでに二百一十億のなかに選捨するところの粗行なり。
ゆゑに「全非比校也」といふ。また念仏はこれ本願の行なり。諸行はこれ
本願にあらず。ゆゑに「全非比校也」といふ。
【8】 念仏の行者かならず三心を具足すべき文。
『観無量寿経』にのたまはく、「もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるも
のは、三種の心を発して即便往生しなん。なんらをか三となす。一には至誠心、
二には深心、三には回向発願心なり。三心を具すればかならずかの国に生ず」
と。
同経の『疏』(散善義)にいはく、「『経』(観経)にのたまはく、〈一には至
誠心〉と。〈至〉は真なり。〈誠〉は実なり。一切衆生の身口意業に修すると
ころの解行、かならず真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢
善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。貪瞋・邪偽・奸詐百端にし
て悪性侵しがたし。事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども名づけて雑毒の善
となす。また虚仮の行と名づく。真実の業と名づけず。もしかくのごとき安
心・起行をなせば、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になして、
頭燃を救ふがごとくすとも、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回らし
て、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。な
にをもつてのゆゑぞ。まさしくかの阿弥陀仏の因中に菩薩の行を行じたまひし
時に、乃至一念一刹那も、三業に修するところ、みなこれ真実心のうちになし
たまひしによりてなり。おほよそ施為・趣求するところ、またみな真実なるべ
し。また真実に二種あり。一には自利の真実、二には利他の真実なり。自利の
真実といふは、また二種あり。一には真実心のうちに、自他の諸悪および穢国
等を制捨して、行住坐臥に一切の菩薩の諸悪を制捨するに同じく、われもま
たかくのごとくならんと想ふなり。二には真実心のうちに、自他の凡聖等の善
を勤修して、真実心のうちに、口業をもつてかの阿弥陀仏および依正二報を讃
歎し、また真実心のうちに、口業をもつて三界・六道等の自他の依正二報の苦
悪の事を毀厭し、また一切衆生の三業所為の善を讃歎す。善業にあらざるをば
つつしみてこれを遠ざかれ、また随喜せざれ。また真実心のうちに、身業をも
つて合掌礼敬し、四事等をもつてかの阿弥陀仏および依正二報を供養す。ま
た真実心のうちに、身業をもつてこの生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭
捨し、また真実心のうちに、意業をもつてかの阿弥陀仏および依正二報を思想
し観察し憶念して、目前に現ずるがごとくにし、また真実心のうちに、意業を
もつてこの生死三界等の自他の依正二報を軽賤し厭捨し、不善の三業をばかな
らずすべからく真実心のうちに捨つべし。またもし善の三業を起さば、かなら
ずすべからく真実心のうちになすべし。内外明闇を簡ばず、みなすべからく真
実なるべし。ゆゑに至誠心と名づく。
〈二には深心〉と。〈深心〉といふはすなはちこれ深信の心なり。また二種
あり。一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのか
たつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二には決定して
深く、かの阿弥陀仏の、四十八願をもつて衆生を摂受したまふこと、疑なく慮
りなくかの願力に乗りてさだめて往生を得と信ず。また決定して深く、釈迦仏
のこの『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃し
て、人をして欣慕せしめたまふを信ず。また決定して深く、『弥陀経』のなか
に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧したまふ、決定して生ずることを得と信
ず。また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身
命を顧みず、決定してより行じて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏
の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。
これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づけ、これを仏願に随順すと名づく。
これを真の仏弟子と名づく。また一切の行者ただよくこの『経』(観経)により
て深信して行ずるものは、かならず衆生を誤たじ。なにをもつてのゆゑに。仏
はこれ満足大悲の人なるがゆゑに。実語のゆゑに。仏を除きてよりこのかたは
智行いまだ満たずして、その学地にありて、正習二障ありていまだ除かず、
果願いまだ円かならざるによりて、これらの凡聖はたとひ諸仏の教意を測量す
れども、いまだ決了することあたはず。平章することありといへども、かな
らずすべからく仏の証を請じて定となすべし。もし仏の意に称へばすなはち印
可して、〈如是如是〉とのたまふ。もし仏の意に可はざれば、すなはち〈なん
ぢらの所説、この義不如是〉とのたまふ。印したまはざるは、すなはち無記・
無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。
もし仏のあらゆる言説は、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正
智なり。もしは多、もしは少、もろもろの菩薩・人・天等を問はず、その是非
を定む。もし仏の所説は、すなはちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごと
く不了教と名づく、知るべし。このゆゑにいまの時、仰ぎて一切の有縁の往
生人等に勧む。ただ深く仏語を信じて専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教
を信用して、もつて疑礙をなし、惑ひを抱きてみづから迷ひて、往生の大益を
廃失すべからず。また深心は〈深信なり〉とは、決定して自心を建立して、教
に順じて修行して、永く疑錯を除きて、一切の別解・別行・異学・異見・異執
のために、退失し傾動せられざるなり。問ひていはく、凡夫は智浅く、惑障処
深し。もし解行不同の人に、多く経論を引きて来りてあひ妨難し、証して〈一
切の罪障の凡夫往生を得ず〉といふに逢はんに、いかんがかの難を対治して、
信心を成就して、決定して直に進みて、怯退を生ぜざらんや。答へていはく、
もし人ありて多く経論の証を引きて、〈生ぜず〉といはば、行者すなはち報へ
ていへ、〈なんぢ、経論をもつて来り証して《生ぜず》といふといへども、わ
が意のごときは決定してなんぢが破を受けず。なにをもつてのゆゑに。しかも
われまた、これかのもろもろの経論を信ぜざるにはあらず。ことごとくみな仰
信す。しかるに仏かの経を説きたまふ時は、処別に、時別に、対機別に、利益
別なり。またかの経を説きたまふ時は、すなはち『観経』・『弥陀経』等を説き
たまふ時にあらず。しかるに仏の説教は、機に備ひて時また不同なり。かれす
なはち通じて人・天・菩薩の解行を説く。いま『観経』の定散二善を説くは、
ただ韋提および仏の滅後の五濁・五苦等の一切凡夫のために、証して《生ずる
ことを得》とのたまふ。この因縁のために、われいま一心にこの仏教によりて
決定して奉行す。たとひなんぢら百千万億ありて《生ぜず》といふとも、ただ
わが往生の信心を増長し成就せん〉と。また行者さらに向かひて説きていへ。
〈なんぢよく聴け。われいまなんぢがためにまた決定の信相を説かん。たとひ
地前の菩薩・羅漢・辟支仏等、もしは一、もしは多、乃至、十方に遍満して、
みな経論の証を引きて《生ぜず》といはば、われまたいまだ一念の疑心を起さ
じ。ただわが清浄の信心を増長し成就せん。なにをもつてのゆゑに。仏語は
決定成就の了義にして、一切のために破壊せられざるによるがゆゑに〉と。
また行者よく聴け。たとひ初地以上十地以来、もしは一、もしは多、乃至、十
方に遍満して、異口同音にみないはく、〈釈迦仏、弥陀を指讃し、三界・六道
を毀呰して、衆生を勧励し、《専心に念仏し、および余善を修して、この一身
を畢へて後に必定してかの国に生ず》といふは、これはかならず虚妄なり、依
信すべからず〉と。われこれらの所説を聞くといへども、また一念の疑心を生
ぜずして、ただわが決定して上上の信心を増長し成就せん。なにをもつての
ゆゑに。すなはち仏語は真実の決了の義なるによるがゆゑに。仏はこれ実知・
実解・実見・実証にして、これ疑惑の心中の語にあらざるがゆゑに。また一切
の菩薩の異見・異解のために破壊せられず。もし実にこれ菩薩ならば衆く仏教
に違はじ。またこの事を置け。行者まさに知るべし。たとひ化仏・報仏、もし
は一、もしは多、乃至、十方に遍満して、おのおの光を輝かし、舌を吐きて、
あまねく十方に覆ひて、一々に説きてのたまはく、〈釈迦の所説にあひ讃め、
一切の凡夫を勧発して、《専心に念仏し、および余善を修して、回願してかの
浄土に生ずることを得》といふは、これはこれ虚妄なり、さだめてこの事な
し〉と。われこれらの諸仏の所説を聞くといへども、畢竟じて一念の疑退の心
を起して、かの仏国に生ずることを得ずと畏れじ。なにをもつてのゆゑに。一
仏は一切仏なり。あらゆる知見・解行・証悟・果位・大悲、等同にして少しき
差別なし。このゆゑに一仏の制したまふところは、すなはち一切の仏同じく制
したまふ。前仏の殺生・十悪等の罪を制断したまふがごとく、畢竟じて犯せず
行ぜざるは、すなはち十善・十行と名づけ、六度の義に随順す。もし後仏あり
て世に出でんに、あに前の十善を改めて十悪を行ぜしむべけんや。この道理を
もつて推験するに、あきらかに知りぬ。諸仏の言行はあひ違失せず。たとひ釈
迦一切の凡夫を指し勧めて、〈この一身を尽して専念専修して、命を捨てて以
後にさだめてかの国に生ず〉といふは、すなはち十方の諸仏ことごとくみな同
じく讃め、同じく勧め、同じく証したまふ。なにをもつてのゆゑに。同体の大
悲のゆゑに。一仏の所化は、すなはちこれ一切の仏の化なり。一切の仏の化は、
すなはちこれ一仏の所化なり。すなはち『弥陀経』のなかに説きたまはく、釈
迦極楽の種々の荘厳を讃歎し、また一切凡夫を勧めて、〈一日七日、一心にも
つぱら弥陀の名号を念じて、さだめて往生を得しめたまふ〉と。次下の文(同)
にのたまはく、〈十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦を讃
めて、よく五濁悪時、悪世界、悪衆生、悪煩悩、悪邪、無信の盛りなる時にお
いて、弥陀の名号を指讃して、衆生を勧励して、《称念すればかならず往生を
得》〉と。すなはちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信
ぜざることを恐畏して、すなはちともに同心同時におのおの舌相を出して、あ
まねく三千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまふ。〈なんぢら衆生、みなこの
釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を
問はず、ただよく上百年を尽して、下一日七日に至るまで、一心にもつぱら弥
陀の名号を念ずれば、さだめて往生を得ること、かならず疑なし〉と。このゆ
ゑに一仏の所説は、すなはち一切の仏同じくその事を証誠したまふ。これを
人に就きて信を立つと名づく。次に行に就きて信を立つとは、しかるに行に二
種あり。一には正行、二には雑行なり。[云々。前の二行のなかに引くところのご
とし。繁きを恐れて載せず。見る人、意を得よ。]
三には〈回向発願心〉と。〈回向発願心〉といふは、過去および今生の身口
意業に修するところの世・出世の善根、および他の一切の凡聖の身口意業に修
するところの世・出世の善根を随喜して、この自他の所修の善根をもつて、こ
とごとくみな真実の深信の心のうちに回向して、かの国に生ぜんと願ず。ゆゑ
に回向発願心と名づく。また回向発願とは、かならずすべからく決定の真実心
のうちに回向して、得生の想を願作すべし。この心深く信ずることなほ金剛の
ごとく、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。た
だこれ決定して一心に捉りて、正直に進みて、かの人の語を聞きて、すなはち
進退ありて、心に怯弱を生じて、回顧して道に落ちて、すなはち往生の大益を
失ふことを得ざれ。問ひていはく、もし解行不同の邪雑の人等ありて、来りて
あひ惑乱して、種々の疑難を説きて、〈往生を得ず〉といひ、あるいはいはん、
〈なんぢら衆生、曠劫よりこのかたおよび今生の身口意業に、一切の凡聖の身
の上においてつぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造
りて、いまだ除尽することあたはず。しかもこれらの罪は三界の悪道に繋属す。
いかんぞ一生の修福念仏をもつて、すなはちかの無漏無生の国に入りて、永く
不退の位を証悟することを得んや〉と。答へていはく、諸仏の教行、数塵沙
に越えたり。稟識の機縁、情に随ひて一にあらず。たとへば世間の人の眼に見
つべく信じつべきがごときは、明はよく闇を破し、空はよく有を含す、地はよ
く載養す、水はよく生潤す、火はよく成壊するがごとし。かくのごとき等の事、
ことごとく待対の法と名づく。すなはち目に見つべし。千差万別なり。いかに
いはんや仏法の不思議の力、あに種々の益なからんや。随ひて一の門より出づ
といふは、すなはち一の煩悩の門より出づるなり。随ひて一の門より入るとい
ふは、すなはち一の解脱智慧の門より入るなり。これがために縁に随ひて行を
起して、おのおの解脱を求む。なんぢ、なにをもつてかすなはち有縁にあらざ
る要行をもつてわれを障惑する。しかもわが愛するところは、すなはちこれわ
が有縁の行なり。すなはちなんぢが所求にあらず。なんぢが愛するところは、
すなはちこれなんぢが有縁の行なり。またわが所求にあらず。このゆゑに所楽
に随ひてその行を修すれば、かならず疾く解脱を得。行者まさに知るべし。も
し解を学せんと欲はば、凡より聖に至るまで、乃至仏果まで、一切無礙にみな
学することを得よ。もし行を学せんと欲はば、かならず有縁の法によれ。少し
き功労を用ゐるに多く益を得。
また一切の往生人等にまうす。いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、
信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。何の者かこれや。たとへば、
人ありて西に向かひて百千の里を行かんと欲するに、忽然として中路に二の河
あり。一はこれ火の河、南にあり。二はこれ水の河、北にあり。二河おのおの
闊さ百歩、おのおの深さ底もなく、南北辺なし。まさしく水火の中間に一の白
道あり。闊さ四五寸ばかりなるべし。この道東の岸より西の岸に至るまで、ま
た長さ百歩、その水の波浪交過して道を湿す。その火の炎また来りて道を焼く。
水火あひ交はりてつねに休息することなし。この人すでに空曠のはるかなる処
に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣のみあり。この人の単独なるを見
て、競ひ来りて殺さんと欲す。この人死を怖れて直に走りて西に向かふに、忽
然としてこの大河を見る。すなはちみづから念言すらく、〈この河南北に辺畔
を見ず。中間に一の白道を見る。きはめてこれ狭少なり。二の岸あひ去るこ
と近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死すること疑はず。
まさしく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣漸々に来り逼む。まさしく南北
に避り走らんと欲すれば、悪獣・毒虫競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に
向かひて道を尋ねて去らんと欲すれば、またおそらくはこの水火の二河に堕す
ることを〉と。時に当りて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから
思念すらく、〈われいま回るともまた死なん。住すともまた死なん。去るとも
また死なん。一種として死を勉れじ。われむしろこの道を尋ねて前に向かひて
去らん。すでにこの道あり。かならず度るべし〉と。この念をなす時に、東の
岸にたちまちに人の勧むる声を聞く。〈なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて
行け。かならず死の難なからん。もし住せばすなはち死なん〉と。また西の岸
の上に人ありて、喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念に直に来れ。われよく
なんぢを護らん。すべて水火の難に堕することを畏れざれ〉と。この人すでに
ここに遣り、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当り
て、決定して道を尋ねて直に進みて疑怯退心を生ぜず。あるいは行くこと一分
二分するに、東の岸に群賊等喚ばひていはく、〈なんぢ回り来れ。この道嶮悪
にして過ぐることを得じ。かならず死すること疑はず。われらすべて悪心をも
つてあひ向かふことなし〉と。この人喚ばふ声を聞くといへども、また回顧せ
ず。一心に直に進みて道を念じて行くに、須臾にすなはち西の岸に到りて、永
く諸難を離れて、善友とあひ見て慶楽已むことなきがごとし。これはこれ喩へ
なり。
次に喩へを合せば、〈東の岸〉といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。
〈西の岸〉といふは、すなはち極楽の宝国に喩ふ。〈群賊・悪獣詐り親しむ〉
といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。〈人なき空
迥の沢〉といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。
〈水火の二河〉といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごと
しと喩ふるなり。〈中間の白道四五寸なる〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩
悩のなかに、よく清浄の願往生の心を生ずるに喩ふ。すなはち貪瞋強きによ
るがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心は微なるがゆゑに、白道のご
としと喩ふ。また〈水波つねに道を湿す〉といふは、すなはち愛心つねに起り
て、よく善心を染汚するに喩ふ。また〈火炎つねに道を焼く〉といふは、すな
はち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。〈人の道の上を行きて直に西に向
かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回して直に西方に向かふに喩ふ。
〈東の岸に人の声の勧め遣るを聞きて、道を尋ねて直に西に進む〉といふは、
すなはち釈迦はすでに滅して、後の人見たてまつらざれども、なほ教法ありて
尋ぬべきに喩ふ。すなはちこれを声のごとしと喩ふるなり。〈あるいは行くこ
と一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見人等
の、妄りに見解を説きてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失
するに喩ふ。〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉といふは、すなはち弥陀の願意
に喩ふ。〈須臾に西の岸に到りて善友あひ見て喜ぶ〉といふは、すなはち衆生
久しく生死に沈みて、曠劫に輪廻し、迷倒してみづから纏りて、解脱するに由
なきに、仰ぎて釈迦の発遣して西方に指向したまふことを蒙り、また弥陀の悲
心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の意に信順して、
水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗りて、命を捨
てをはりて後にかの国に生ずることを得て、仏とあひ見えて慶喜なんぞ極まら
んと喩ふるなり。
また一切の行者、行住坐臥三業に修するところ、昼夜時節を問ふことなく、
つねにこの解をなしつねにこの想をなすがゆゑに、回向発願心と名づく。また
〈回向〉といふは、かの国に生じをはりて、還りて大悲を起して、生死に回入
して衆生を教化するをまた回向と名づく。
三心すでに具すれば、行として成ぜずといふことなし。願行すでに成じて、
もし生ぜずは、この処あることなからん。またこの三心はまた通じて定善の義
に摂す、知るべし」と。
『往生礼讃』にいはく、「問ひていはく、いま人を勧めて往生せしめんと欲
はば、いまだ知らず、いかんが安心・起行して業をなしてか、さだめてかの国
土に往生することを得んや。答へていはく、かならず浄国の土に往生せんと欲
はば、『観経』の説のごときは、三心を具すればかならず往生を得。なんらを
か三となす。一には至誠心、いはゆる身業をもつてかの仏を礼拝し、口業をも
つてかの仏を讃歎称揚し、意業をもつてかの仏を専念観察す。おほよそ三業を
起すに、かならずすべからく真実なるべし。ゆゑに至誠心と名づく。二には深
心、すなはちこれ真実の信心をもつて、自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根
薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願、名号
を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまでさだめて往生を得と信知して、
乃至一念も疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。三には回向発願心、所作
の一切の善根ことごとくみな往生に回願す。ゆゑに回向発願心と名づく。この
三心を具すれば、かならず生ずることを得、もし一心少けぬれば、すなはち生
ずることを得ず。『観経』につぶさに説くがごとし、知るべし」と。
わたくしにいはく、引くところの三心はこれ行者の至要なり。所以はい
かんぞ。『経』(観経)にはすなはち、「具三心者必生彼国」といふ。あき
らかに知りぬ、三を具すればかならず生ずることを得べし。『釈』(礼讃)
にはすなはち、「若少一心即不得生」といふ。あきらかに知りぬ、一も少
けぬればこれさらに不可なり。これによりて極楽に生れんと欲はん人は、
まつたく三心を具足すべし。そのなかに「至誠心」とはこれ真実の心なり。
その相、かの文(散善義)のごとし。ただし「外に賢善精進の相を現じ、内
に虚仮を懐く」といふは、外は内に対する辞なり。いはく外相と内心と不
調の意なり。すなはちこれ外は智、内は愚なり。賢といふは愚に対する言
なり。いはく外はこれ賢、内はすなはち愚なり。善は悪に対する辞なり。
いはく外はこれ善、内はすなはち悪なり。精進は懈怠に対する言なり。い
はく外には精進の相を示し、内にはすなはち懈怠の心を懐く。もしそれ外
を翻じて内に蓄へば、まことに出要に備ふべし。「内に虚仮を懐く」と等
とは、内は外に対する辞なり。いはく内心と外相と不調の意なり。すなは
ちこれ内は虚、外は実なり。虚は実に対する言なり。いはく内は虚、外は
実なるものなり。仮は真に対する辞なり。いはく内は仮、外は真なり。も
しそれ内を翻じて外に播さば、また出要に足りぬべし。次に「深心」とは、
いはく深信の心なり。まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止とな
し、涅槃の城には信をもつて能入となす。ゆゑにいま二種の信心を建立し
て、九品の往生を決定するものなり。またこのなかに「一切の別解・別
行・異学・異見」等といふは、これ聖道門の解・行・学・見を指す。その
余はすなはちこれ浄土門の意なり。文にありて見るべし。あきらかに知り
ぬ、善導の意またこの二門を出でず。回向発願心の義、別の釈を俟つべか
らず。行者これを知るべし。この三心は総じてこれをいへば、もろもろの
行法に通ず。別してこれをいへば、往生の行にあり。いま通を挙げて別を
摂す。意すなはちあまねし。行者よく用心して、あへて忽諸せしむること
なかれ。