ルカ・ドゥバルグ ― スカルラッティ・フィリア | 未音亭日乗

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古楽ファンの勝手気ままなモノローグ。

亭主から見て、ドメニコ・スカルラッティの鍵盤音楽の多くは、紛うことなくハープシコードのための音楽と感じられますが、ホロヴィッツとカークパトリックの対話によってモダン・ピアノによる表現の可能性が拓かれて以来、数多くのピアニストによる素晴らしい演奏が現代の聴衆の耳を楽しませてきました。

 

これは同時代の他の鍵盤音楽についてもそうで、あのバッハにしても、20世紀半ばまでのピアニストによる多くの名演がなければ、我々が知る近現代における名声もなかったのではと想像されます。

 

もちろん、ハープシコードはピアノとは全く異なる楽器であり、ピアノによる演奏はハープシコードのそれを置き換えたのではなく、「新たな表現」をもたらしたのだ、ということは強調してもし過ぎることはありません。それを証するかのように、ピリオド・スタイルが全盛となり始めた20世紀末以降、今度はハープシコードによる「新たな表現」の追求が倦むことなく続いています。また、これに刺激を受けて、モダン・ピアノによる新たな試みも目につくようになりました。近年では、例えばアレクサンドル・タローによるラモーの演奏なども、ピアノによるそのような「新たな表現」への探求のひとつと言えそうです。

 

とはいえ、バロック期以前の鍵盤音楽をモダン・ピアノで弾くことは、今ではマイノリティになった感があります。「伝統」を重んじるクラシック音楽の世界にいるピアニストが、ピリオド・スタイル全盛という状況の下で「演奏の正当性」という考え方に縛られたからだとすれば皮肉な結果ですが、若い世代のピアニストはそのような自網自縛とも無縁なようです。例えば、ヴィキングル・オラフソンもそのような世代のピアニストらしく、「バッハは自由の国だ!」を実践している感があります。

 

ルカ・ドゥバルグは1990年生まれのフランスのピアニスト。10歳の時にスカルラッティのソナタK. 431に出会い、彼の音楽に開眼したという「恐るべき子供たち(Les Enfants Terribles)」のひとりです。[日本語による雑誌やウェブ上の記事では、何故か件のソナタの番号を誤ってK. 433としているようなのでご注意!]

 

K. 431といえば、ドメニコが彼のソナタの創作の秘密をわずか16小節、印刷譜でわずか1ページの音楽の中に開示した、スカルラッティ音楽の専門家の間ではよく知られたプロトタイプのような作品ですが、ちょっと目にはどうということもない曲。わずか10歳の子供が、それほどまでにこの曲に衝撃を受けたとすれば、まさに想像を超えた感受性と言えるかも。(これがいつ、何の目的で作曲されたのかを想像するのは音楽学者・愛好家にとって尽きない楽しみのひとつとも言えます。)

 

亭主はこの週末、ルカ・ドゥバルグの新譜(2019年)である「スカルラッティ・ソナタ集」を聴き始めたところ止まらなくなり、4枚のCDに納められた52曲を一気に聴き終えました。

スカルラッティ:ソナタ(全52曲)

 

これまでもピアノによる演奏の音盤は時々耳にする機会はありましたが、どれも音盤1枚に比較的有名なソナタを入れたものが多く、それっきりになってしまうことがほとんどでした。が、ドゥバルグは1枚に13曲ずつ、しかも4枚それぞれが13曲で1つのアルバム(あるいはリサイタル・プログラム)となるような明確な意図を持って構成されており、知的ゲームのような外貌の中に彼の「スカルラッティ観」を開陳して見せているところが秀逸です。もちろん、それは素晴らしい演奏があってこその仕掛けでもあり、ドゥバルグはモダン・ピアノの持つ(ハープシコードにはない)ソノリティを十二分に意識し、ホロヴィッツ以来のピアノによる演奏の一つの到達点ともいうべき演奏(進歩ではなく解放という意味での)を聴かせてくれます。

 

というわけで、亭主は久しぶりにピアノによるスカルラッティ・ソナタの演奏を堪能するとともに、彼の演奏を聴きながら「スカルラッティは自由の国だ!」というキャッチコピーを思い浮かべていました。

 

以下、音盤のライナーノートの一部を亭主訳でご紹介:

 

<<ニコラ・ヴィトコフスキの解説記事から>>

(ドメニコのソナタに関する解説部分に続いて)

 

或る強度

2016年にソニー・クラシカルから発売されたルカ・ドゥバルグのデビュー・アルバムが、スカルラッティのソナタ4曲で始まり、K 208の即興演奏で終わったのは偶然ではないだろう。 このようにしてピアニストは、ナポリの作曲家との音楽的親和性を宣言し、またおそらくアプローチの共通点にも着目している--これらのソナタの見かけ上の呑気さと自発性は、スカルラッティが矢のような速さで書いたのではないかと思わせるのである。 ルカ・ドゥバルグは、今回収録された52曲のソナタの録音に、わずか5日間しかかけていない。そして、彼はわずか5年余りをかけてその素晴らしいテクニックを完成させ、2015年のチャイコフスキー・コンクールで聴衆を感激させたのだ。結局のところ、すべては強度の問題なのだ。

 

私はルカ・ドゥバルグはがこの音盤を企画しているときに会い、彼の仕事ぶりを見ることができた。ドゥバルグはわずか数週間のうちにスカルラッティに関するすべての文献を調べ尽くし、ソナタの作曲年についていくつかの独自の説を打ち立てたのである。 これらの作品がどのような順序で書かれたかは、音楽学者の間でも議論があるところだが、ラルフ・カークパトリックによる多少とも年代順の分類により、少なくともあるソナタの書かれたおおよその年代を把握することができるようになった。ルカ・ドゥバルグが提案する4つのアプローチの中で、ルカはソナタの調性、構造を巧みに操り、最も古いソナタと数年後に書かれた他のソナタの間に反響のようなリンクを作り出した。 各アルバムは、スカルラッティの世界の中心である瞑想的なソナタのひとつで締めくくられている。

 

そのうちの10曲は、1980年代にスコット・ロスが録音した記念すべき全曲録音を除いては、これまで一度も録音されたことがないものである。ルカ・ドゥバルグが提案する新しいスカルラッティは、スカルラッティらしく、ウィンクを交えたおまけ付きだ。52曲のソナタは、1年の各週に1曲ずつ(「スカルラッティの四季」)、これはトランプの一組に入る枚数でもあり、スカルラッティは常習的な博打打ちだった。スカルラッティは大のギャンブル好きで、王妃が借金を肩代わりしてくれることになり、その見返りに自分のソナタを写譜させたという話もあるほどだ。しかし、これもまた、この英雄にまつわる伝説のひとつなのかもしれない。ドメニコ・スカルラッティは幽霊のような存在だが、今回のリリースは、この作曲家の生命力の強さを具体的に示している。

 

 

<<ルカ・ドゥバルグによる音盤解説>>

 

ドメニコとの出会い

 

出発点 — ドメニコ・スカルラッティとの出会いは愉快な思い出だ。それは2000年、私が10歳のときだった。ピアノを弾き始めたばかりの頃で、雑誌『ピアニスト』の古い号を夢中になって読んでいた私は、スカルラッティの555曲のソナタの中で最も短いK 431 ト長調を発見した。私はこの曲を3枚目のアルバムの冒頭に置いている。この1ページの楽譜は、あまりにもシンプルな外見だが、この膨大なソナタ群の謎と深さを感じ取るには十分で、17年後に私はその全貌を知ることになる。 

 

ソナタ全曲の全楽譜 — 2015年のチャイコフスキー・コンクールをきっかけに、私の音楽人生が決定的な転換を迎えた矢先、その時点では有名どころしか知らなかったにもかかわらず、これらのソナタを相当数録音することが思い浮かんだ。 しかし、本当のきっかけは2017年の春、パリの楽器店のひとつであるアリオーゾが、ケネス・ギルバートのスカルラッティ・ソナタ全11巻の一揃いを売り出していたときに突然やってきたのだった。私は手に入れたばかりの驚異を詰め込んだ重い買い物袋を持ち帰り、1週間、ピアノで全11巻、合計約37時間の音楽を目で追うために閉じこもった。

 

スカルラッティの宇宙 — それぞれのソナタは、調性和声の奇跡を体現している。そこにはバロック、前古典派、古典派の要素もあるが、このような言葉が適切かどうかはこれらの作品の永遠性に比べれば瑣末なことであり、形式の厳密さと抑えきれない創意とのバランスがほぼ自動的に完璧な状態に到達している。この555曲のソナタのほとんどすべてが霊感に満ち、彼が現代のどの作曲家よりも我らの時代の作曲家であることを明らかにしている。これらのソナタは時の中に存在するのではなく、時そのものを作り上げ、あらゆる偉大な音楽作品がそうであるように、その実体を変化させ得るのである。 しかし、スカルラッティの場合、それはまったくユニークな簡潔さと効果によって達成されている。わずか数音のうちに、我々は拡大し続ける平行宇宙に入り込んでしまう。時は空間になる。 

 

スカルラッティにとって、その空間はスペインだった。 作曲家として生まれ変わった国であり、1757年に亡くなるまで、マリア・バルバラ女王の宮廷で家族とともに暮らした国である。このことは、アンダルシアの音楽を思わせる旋法的なフレーズの揺らぎ(特にソナタK107とK535)、スカルラッティのリズムの独創性(K45とK244)、彼の選んだ色彩の過剰さ(K414、K443とK447)、ある種のコントラストの暴力性 (K 253、 K 260、 および K 268) 、さらにはカンテ・ホンド ― ポルトガルやスペインで親しんだ民謡の一つ ― の使用(K206、このアルバムの冒頭を飾る)によって感じることができるだろう。

 

スカルラッティを解釈する

スコット・ロス — スカルラッティのソナタを解釈する上で私が参考にしているのは、スコット・ロスがチェンバロで録音した全集版である。彼の音楽的な知性、常に信頼できる直感、素晴らしい感性、そのすべてが比類ないものだった。 一部のソナタを除き、ピアノでの演奏ではこれほど説得力のあるものはない。スコット・ロスの読みは私にとって決定的と思えるので、リスナーはこの録音で彼の個人的な特徴をいくつか再発見することになるだろう。例えば、K105のアッチャッカトゥーラの筋の通った弾き方(私見では、この高速アルペジオ和音を演奏する唯一の方法)、カンタービレの線を常に優先すること、表現上の目的にそぐわない場合はメトロノームの正確性を無視すること、などである。  

 

チェンバロ奏者によってチェンバロのために書かれた4時間の音楽をピアノで演奏する:これは「ピアノ」が私にとってどの程度興味がないかを示す新しい方法である。もっとも、これらのソナタを調律師トーマス・フブッシュの有能な手で調整されたベーゼンドルファー280VCで録音できたことは、私にとって計り知れない喜びだったが。私はまったくと言っていいほどペダルを使わなかった。すべての効果は、鍵盤を弾く私の指だけで実現し、収録場所のベルリンのイエス・キリスト教会という自然の音響の助けを借りているので、人工的な残響を加える必要はない。チェンバロ奏者やオルガニストが鍵盤や音詮を変えることで実現できるエコー効果を使うこともあるが、そうすることで単なる自動演奏のようになってしまうことは避けた。音響技師のハンス・キプファーが、この冒険を勇敢に手伝ってくれたが、肉体的にも精神的にも試練に満ちたものであった。

 

ソナタの対構成といくつかの特異性 — ここに収録されたソナタは、基本的に対でグループ化されている。スカルラッティとその作品に関するわずかな資料から、これらの対構成のいくつかは意図的なものであり、2つの曲は続けて演奏されるように企画されていると言えるだろう。ソナタK 106-7、K 404-5、K 534-5では、このことは言うまでもないようだ。いずれも、同じ調性で緩やかな楽章が急速な舞曲楽章の前に置かれている。 その他のソナタについては、私の好みや気の向くままに、あるときは恣意的に、あるときは類似性を強調するように、また逆に対比を際立たせるように組み合わせてみた。また、テンポと調性が交互になるように注意した。全体として、ソナタの選択はこの4枚のアルバムの和声的な進行に沿っており、それはできるだけ穏やかで自然な進行となることをと願ってである。

 

私は特定のテンポ記号を尊重しないことにした:例えば、ソナタK 247では、和声的な風味をできるだけ引き出すために、アレグロではなくアンダンテで演奏することにした。最後になったが、私は繰り返しという特別な楽しみを否定したくなかったので、すべての繰り返しを演奏している。