ハプスブルク展 | 未音亭日乗

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古楽ファンの勝手気ままなモノローグ。

昨年(?)はオーストリアと日本の国交樹立150周年だとかで、それを記念して表記の展覧会が開催されています。国立西洋美術館が会場とあって、およそ100点の展示物の過半は絵画、それもウィーン美術史美術館からの出展です。

亭主が関心を持つ18世紀以前の音楽の舞台は、まさにハプスブルク帝国がヨーロッパの政治・文化の主要なプレーヤーだった時代。音楽の時代背景としても大いに興味をそそられます。しかも、ウィーン美術史美術館といえばヨーロッパ屈指の絵画コレクションで知られ、美術ファンにとり今回の展示内容は大いに気になるところ。そこで先週末、絵の鑑賞に耳の調子は差し障りなかろうと、朝一で耳鼻科を受診した後に上野に参上することに。

 


(ちなみに、件の突発性難聴と思しき症状、薬が3日目ぐらいから効果を現し始め、今週末にはほぼ症状が気にならない程度にまで回復。ようやく音楽を元のように楽しめるようになりました。\(^o^)/)

さて、会場に入るなり亭主どもを迎えたのは「ローマ王としてのマクシミリアン1世」という絵でした。マクシミリアン1世といえば、やはりウィーン美術史美術館所蔵のデューラーの肖像画が有名ですが、流石にその来日は叶わず、というところでしょうか。展示作品は彼と同時代のシュトリーゲルという画家(あるいはその工房)の手になるもので、ウィキペディアの「マクシミリアン1世」のページにこれに似た絵が掲載されていますが、よく見ると別物で、右上の窓に描かれている外の風景が展覧会の作品にはありません。

マクシミリアン1世はデューラーを贔屓にしていたものの、彼を宮廷画家として抱えるほどの経済的な余裕はなく、また神聖なローマ皇帝としての威光を示す凱旋門を建てたいと思うも叶わず、彼の版画で代用したことで知られています。一方で、その周到な婚姻政策でブルゴーニュ、スペイン、ハンガリーを領地に組み入れる布石を打ち、後の大帝国の基礎を築いたとされることから、彼の肖像画がこの展覧会の冒頭を飾ることになったということでしょう。

(ちなみに、ハプスブルクのスペインはそれから200年ほど後のちょうど1700年、カルロス2世[近親婚の犠牲と言われる]で終焉し、太陽王ルイ[14世]の孫にあたるフェリペ5世に始まるブルボン・スペインとして今日まで続くことになります。ドメニコ・スカルラッティが仕えていたのもブルボン・スペインの宮廷でした。)

もう一つの要因として、この頃(ルネサンス後期)から中欧でもデューラーをはじめとして世界的な画家が排出するようになり、展覧会を構成しやすいというメリットもありそうです。実際、この展覧会でもマクシミリアンの肖像は来られなかったものの、デューラーの油彩肖像画が1枚エントリーしています。

とはいえ、亭主にとって最大の目玉はイタリアおよびスペイン絵画。数は多くないとはいえ、ジョルジョーネ、ペルジーノ、ティツィアーノ、ヴェロネーゼといったヴェネチア派の大御所の作品がお出ましです。(他にもマンテーニャ、ティントレットなど、日本ではまずお目にかかれないルネサンス後期-マニエリスム時代の絵画がちらほら。)さらには、あの突き出た顎と厚いい下唇というハプスブルク顔が冷徹に描かれたベラスケスの「フェリペ4世」、あどけなくも昂然と自己主張する「王女マルガリータ」の連作も見応え十分。

これらに加え、こちらも数は少ないとはいえあのレンブラント、フランツ・ハルスやロイスダールといったネーデルランド絵画も。レンブラントなどはそもそも作品数が少ないので、彼の作品を間近で見れる機会は貴重です。(ハプスブルクのコレクションに基づくウィーン美術史美術館の収蔵作品の豪華さを垣間見る思いです。)

以上の作品群に比べると、18世紀以降の作品は絵画自体としてはそれほど気を引かれないものの、今度は肖像画に登場する著名人達そのものに興味が湧きます。音楽関係では、例えばモーツアルトと交流があったルイ16世夫妻やヨーゼフ2世の肖像など。

ところで、このブログを書くにあたり、10年以上前に読んだ中野京子さんの「名画で読み解くハプスブルク家12の物語」を開いてみたところ(例によって綺麗さっぱり中身を忘れていたので)大変面白く一気に再読。

 


この本の終章近くを飾ったのが、ヴィンターハルターの「皇妃エリザベト」の肖像画で、実質的な最後の神聖ローマ皇帝となったフランツ・ヨーゼフの細君ですが、この展覧会では別の作家によるもう少し若い頃のエリザベトの絵を目にすることができます。これを眺めれば、中野京子さんの著作中にある「ウェスト50cm」という体型がどういうものだったか一目瞭然。一方、展覧会場ではあまりぱっとしない印象だった夫君フランツ・ヨーゼフの肖像画がこの著作の読後に気になり始め、改めてその記憶を辿り直すことに。

いずれにせよ、大いに目の保養になりました。