ベートーヴェンの時代精神 | 未音亭日乗

未音亭日乗

古楽ファンの勝手気ままなモノローグ。

昨年末、訳あって自宅書棚で洋書が集まっている棚(主に一般向けの科学本、例えばS.ホーキングの著作などがある)をかき回していたところ、大学初年に英語の授業で使った教材テキストがポロッと出てきました。「The Ascent of Man(注)」と題されたこのテキスト、ジェイコブ・ブロノウスキーの著作(1973)からその第8章「The Drive for Power」および第9章「The Ladder of Creation」を抜き出し、読解に必要な注解をつけたものです。前者は18世紀後半に始まった「産業革命」、後者は19世紀中頃に世に出た「進化論」に関わる歴史を著者独自の視点から解説したもので、理系の学生向けの内容として面白く読んだ記憶があります(当時の語学の授業の中では例外中の例外、そのせいでとってあった?)。とはいえ、流石に40年以上前で中身の記憶はほぼ失せていたこともあり、ページを繰り始めたところやはり面白くて一気に読んでしまいました。

 


取り上げられた2章のうち、このところ亭主がよく聴く18世紀後半の音楽という観点から特に面白かったのが第8章です。

いうまでもなく、この時代の音楽のクライアントは、当時没落しつつも依然として支配階級だった王侯貴族(封建制度と血統の申し子達)が中心。そのため、音楽家の活動の舞台である宮中のことばかりに気をとられがちです。が、ブロノウスキーによれば、その外側で「3つの革命」が進行していました。すなわちフランス革命、アメリカ独立戦争(「アメリカ革命」)、そして産業革命です。

このうち前二者は政治革命として世界史的にもよくスポットが当たりますが、イギリスを中心に起きた産業革命がこれらと同列に語られることはまずないと思われます。ところがブロノウスキーは、この3つが実際にはいずれも「社会革命」であった、という統一的視点から産業革命を論じています。(ある種の唯物史観的な見方とも言えます。)

ブロノウスキーによれば、産業革命は(他の2つに習えば)「イギリス革命」と呼ばれるべきだと言います。何故ならそれが実際「イギリス的な」革命だったからで、ここでイギリス的とは「田舎=農村」に根ざしていたことを意味しています。具体的には、当時の主要な産業だった毛織物工業など(主に農村部で行われていた)の効率化が革命の実態であり、それが水車などの動力、運河掘削による輸送(いずれも農村部・田舎のインフラ)の効率化、ひいては蒸気エンジンの発明とその輸送への応用(蒸気機関車による鉄道輸送)によってもたらされたからです。

ところで、この章のタイトル「The Drive for Power」出てくる「パワー」こそは、当時の時代精神を読み解くキーワードであるとブロノウスキーは言います。教材の注解者である橋口稔氏は、このタイトルを「動力を求めて」と訳していますが、時代精神という文脈では動力を「エネルギー」と言い換えた方が適切でしょう。何故なら、18世紀は「自然の中にある巨大なエネルギーを発見した世紀」だったから、というわけです。

当時から知られていたエネルギー源としては風力、太陽光、水力、蒸気力、石炭火力などが挙げられますが、ちょうどこの頃になって科学者(今日的には技術者)はこれら「モノを動かす力(Power)」が持つ様々な姿の背後に何か一つの実態がある、という物理的洞察に到達します。それが「エネルギー」という概念です。特に重要だったのが「『熱』もエネルギーの一形態である」という発見でした。(多少専門的に言い換えると、「エネルギーは(姿を変えつつも)保存する」という洞察で、熱力学第1法則とも呼ばれています。)

そしてこの「エネルギーの発見」は、科学や技術といった領域を超えて、広く人間活動の諸相に大きなインパクトを与えます。例えば文学の世界で起きたロマン主義。

文学者が何故産業に興味を持ったかって?そうではなく、エネルギーの発見が「自然の見方」についての革命でもあったからです。それまでは「自然」とはそれ自体をありのままに受け入れるものでした。新しい見方では、自然は無限のエネルギー源、そこからエネルギーを取り出し、変換させる対象となったというわけです。

同じ頃、エネルギーの担い手としての自然を象徴するものとして「嵐(storm)」という言葉がもてはやされました。ドイツでは文学の革新運動「シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)」(sturm=疾風)にも使われます。

音楽においても、ハイドンはその影響をもろに受けたと思われ、先行するエマニュエル・バッハの「多感様式」もこの時代精神を反映したものと見ることができます。

さらに(世紀を跨いで)、この新しい自然観は「人間」そのものにも向けられます。人間自身もこのエネルギーの担い手である、という見方です。つまり、なりたい自分になるためのエネルギー、人を色々な束縛から解放するためのエネルギーであり、まさにロマン主義の中心にある人間観(?)のように見えます。

これはとりもなおさず、当時成長しつつあった産業の担い手である商工業者、封建制度や血統に頼らず、自らの知恵と努力で富を築く「市民」階級にフィットする人間観でもあります。(人間中心主義、という点ではルネサンスに通じるものがあり、そこで「人間」に対置されるものは「神」でしたが、こちらではそれが「アンシャン・レジーム」に置き換わった、というわけです。)

これら18世紀末〜19世紀初の背景の中でベートーヴェン(今年は生誕250年)の人となりや音楽を眺めれば、それが何故あれほどの大喝采をもって迎えられたかがよくわかる気がします。

これまで亭主は、ロマン主義をそれに先行する啓蒙主義・理性主義に対する反動、という見方しかしていませんでしたが、それが「『エネルギー』の発見がもたらした新しい自然観・人間観」に由来する、というブロノウスキーの見方は説得力があり、今更ながら大いに感心した次第。

ふり返れば21世紀も既に20年。我が時代精神を表すキーワードは何だろう、と正月ボケの頭で思いを巡らすこと頻りです。

(なお、ネットで検索したところ、彼の著作の元になったBBCの番組ビデオが落ちていたので、対応する部分[第7話]のリンクを以下に置きます。)

 

https://www.dailymotion.com/video/x206z0e


(注)このタイトル、C. ダーウィンの最後の著作「The Decent of Man(人間の由来)」(1871)のそれをモジったものと思われます。