エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命 | akaneの鑑賞記録

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19世紀イタリアで、カトリック教会が権力の強化のために7歳になる少年エドガルド・モルターラを両親のもとから連れ去り、世界で論争を巻き起こした史実をもとに描いたドラマ。

1858年、ボローニャのユダヤ人街に暮らすモルターラ家に、時の教皇ピウス9世の命を受けた兵士たちが押し入り、何者かにカトリックの洗礼を受けたとされるモルターラ家の7歳になる息子エドガルドを連れ去ってしまう。教会の法に則れば、洗礼を受けたエドガルドをキリスト教徒でない両親が育てることはできないからだ。息子を取り戻そうとする奮闘する両親は、世論や国際的なユダヤ人社会の支えも得るが、教会とローマ教皇は揺らぎつつある権力を強化するために、エドガルドの返還に決して応じようとはせず……。

悲嘆に暮れながらもあらゆる手立てを講じるべく奔走する両親と、時の権力強化のため決して返還に応じようとしない教会側の争いは、イタリアをはじめ、時の皇帝ナポレオンやロスチャイルド家ら、全世界を巻き込んだ論争を紛糾させた。
スティーヴン・スピルバーグが魅了され、映像化に向けて書籍の原作権を押さえたことでも知られているが、今回映画化を実現したのはイタリアの巨匠マルコ・ベロッキオ。

 

 


う~ん。ちょっと分かりにくかったかな。
ある程度知識がないと、なんで??って思うことたくさん。
基本的には「イタリア統一運動による勢力争い」「ユダヤ教とキリスト教の対立」です。

映像はとても美しかったです!
セットやCGではなく、ちゃんと教会で撮影したのでしょうか。
撮影の仕方も美しいし、衣装も豪華でした。
 

 


少年期エドガルド役のエネア・サラ君。

 

ローマとボローニャでの数ヶ月におよぶキャスティングを通してマルコ・ベロッキオ監督に見事抜擢され俳優デビューとのこと。この事件が世界を揺るがすきっかけとなる存在感と美少年ぶり。


青年期エドガルドを演じたのは、「蟻の王」で映画デビューしたレオナルド・マルテーゼさんです。


 

 

 


1858年6月、ボローニャに暮らすモルターラ家に、いきなり異端審問所警察の役人が押し寄せ、「7歳になるエドガルドはカトリックの洗礼を受けている。ユダヤ教徒の中で育てることは不可。よって連れて行く」って言うんです。

 

 

 

両親だって寝耳に水!

どゆこと?!

息子を取り戻すために、両親は裁判を起こしたり、世界中のユダヤ人社会に助言を求めたりして抗議をするんですが、結論としてはその申し出は却下されてしまいます。

 

 

 

 

エドガルドはその後もずっとカトリックの教会(修道院みたいなところ)で生活をし、別に虐待もされず良い服も着せてもらって、しっかりキリスト教の勉強をするんです。

 

 

つまり司祭になるべく教育を受け、結論としては二度と家族の元に帰ることはなかった、というお話。
 

 

 


描かれるのは、まさにイタリア統一運動(1815~1871年)の真っ只中。
国家統一運動が進む近代イタリアでヴァチカンの権威は失墜の一途を辿っていました。
きっかけはごく小さな出来事。エドガルド少年の拉致であり、両親は息子を取り戻したい一心だったと思うんですが、それは次第に世論と国際的なユダヤ人社会を巻き込んで急速に政治的な方向に進んでしまいます。
教会とローマ教皇は揺らいだ権力を強化するため、決してエドガルドの返還に応じませんでした。





そして「誰がエドガルドに洗礼をしたのか」の謎解きなんですけど、まぁぶっちゃけネタバレ書いちゃうと、エドガルドが赤ちゃんの時に雇っていたカトリック教徒のメイドが洗礼をしたんです。
エドガルドが6ヶ月ぐらいの時、高熱を出して生死の境をさまよっていた(ように彼女には見えた)ことがあり、「洗礼も受けずに死んだらこの子は地獄に行ってしまう!」と思って、誰もいない時に急いで洗礼をした、というもの。

 

 

え?

そんなんで良いんですか?

 

 

別に彼女は資格を持っているわけでもなく、近所の人に「洗礼ってどうやってやるの?」と聞いて、その辺の水差しの水をチョイチョイって額につけただけですよ?

証拠もないんですよ?
しかも6年も経ってから、自分が生活に困窮してお金の為にエドガルドを売ったんです。

「6年前、この子に洗礼をしました」って。

えーーー!?でしょ?
なんかテンションぶち下がるわ。


そんな適当な洗礼の割には「二度洗礼を受けることはできない」ってカトリック側はメッチャ頑ななの。

カトリックの威光を知らしめるためには、ユダヤ教徒なんか潰してしまえ!ってことなんでしょうね。





それと、この映画でははっきりを描かれていないんだけど、カトリックの頂点にいる教皇ピウス9世。

 

 

政治的に不人気であったことは描かれていますが、やっぱり「性的嗜好」もあったんじゃないかな。
エドガルド君、とっても可愛いから。

 

 

 

でもそういう「小児性愛」みたいな描写、一切ないんですよね。

ポスターには「なぜ、僕だったの?」って意味深な言葉が書かれていますが、このシーンぐらい?

 



成人してからも、特別目をかけてもらっていたのに教会でエドガルドが粗相をしてしまったとき、みんなが見ている前で「床に舌で十字を3つ書け」とかさ。

 

 

 

なんかきな臭い感じですよね。





エドガルドは統一運動に身を投じた兄が迎えに来ても断ったし、

 

 

 

久しぶりに家族の元を訪れた母親の死の間際でさえ、カトリックに改宗するよう、洗礼を施そうとするんです。
(母親は頑として受け入れませんでしたけど。その時の母親の形相が凄かったです。)


それほどキリスト教に傾倒しているのに、教皇が亡くなって遺体を輸送している時、市民が棺を川に投げ込もうと暴動を起こすのですが、そのとき一緒になって「こんな教皇は川に沈めてしまえ!!」と荒ぶってるんですよね。

その心情は愛憎渦巻くって感じじゃないですか?


絶対そういう関係はあったと思うのに敢えて描かないのは、なんとなく忖度っていうか…西洋に於ける宗教観の壁みたいなものなのかな。

「引き裂かれた親子」といったコンセプトを強調しているけど、私はあんまりそういう親子の愛情も感じなかったんですよね。

だから余計に腑に落ちないというか、ストンと理解できないモヤモヤ感がありました。

長谷川平蔵のカッコよさがイタリア人には分からないのと同じだと思っておこう。




日本でも新興宗教に入れ込んでしまった子供を改心させようとする親、といったケースは多々あります。ある程度の年齢になって、自分の意志で入信した人もいますが、親が信者だったから強制的に信者になっていた場合もあります。


宗教は本来、人の心を救うものであるはずですが、権力を持ち、富を持って政治を動かすようになると、結局は争いの元になってしまう。皮肉なことです。


この事件は実話としてかなり有名で、このように語られているそうです。


「無学な召使いの女と、食料雑貨商と、ボローニャの幼いユダヤ人の子どもの物語が、イタリアと教会の歴史の流れを変えることなどあり得ただろうか? その質問は、さほど突飛なものではない。アンナ・モリージ----ふしだらで、とても貧しく、自分の名前も書けない----のほうが、今日、イタリア中の町の広場に像が立っているリソルジメントの英雄たちよりイタリア統一に大きな貢献をしたと言うことができるのだ」