山女 | akaneの鑑賞記録

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歌舞伎や演劇、映画、TVドラマなど鑑賞作品の覚書

 

 

 

 


「リベリアの白い血」「アイヌモシリ」の福永壮志監督が、人間の脆さと自然への畏敬の念、そして現代にも通じる貧困や差別など社会問題を映し出したドラマ。

18世紀後半の東北。冷害による食糧難に苦しむ村で、凛は人びとから蔑まれながらもたくましく生きていた。そんな彼女の心の救いは、盗人の女神様が宿ると言われる早池峰山だった。ある日、村中を揺るがす事件を起こし、村人から責められる父親・伊兵衛をかばう凛は、家を守るため自ら村を去る。けっして越えてはいけないと言い伝えられる山神様の祠を越えた凛は、さらに山の奥深くへと進んでいく。そんな凛の前に現れたのは、人間なのかもわからない不思議な存在だった。

凛役を「樹海村」「ひらいて」の山田杏奈、村人たちから恐れられる山男役を森山未來、凛の父親・伊兵衛役を永瀬正敏がそれぞれ演じ、二ノ宮隆太郎、三浦透子、山中崇、川瀬陽太、赤堀雅秋、白川和子、品川徹、でんでんらが顔をそろえる。
 

 

 



日本昔ばなしのような、寓話のような、不思議な映画でした。
ほぼモノクロとも言える無彩色な世界。

 


本作は、民俗学者である柳田國男が著した『遠野物語』から着想を得たオリジナルストーリー。
自然の前ではあまりにも無力な村社会、その閉鎖性と集団による同調圧力、身分や性別における格差、貧しい生活を支える信仰の敬虔さと危うさを浮き彫りにしながら、一人の女性が自らの意志で人生を選び取るまでを描いています。




冷害が続き、貧しい村の人々は苦しい生活を強いられています。
子供が生まれてもすぐに捨てなければならないほど。

 

 



村八分にされている父親・伊兵衛(永瀬正敏)。

 

 

 

その娘・凛(山田杏奈)。

 

 

 

弟は目を患っています。

 

 

 

 

祖父が火事を出したということで田畑は取り上げられ、今もなお、酷い扱いを受けているのです。
耕す田畑がないので、死体を処理するなど人が忌み嫌う仕事をして、施しを受けるしかありません。
ご飯は数粒、ほぼお湯のようなお粥しか食べられない日々に耐え兼ね、とうとう伊兵衛は米を盗んでしまいます。

 

 

 

 

 

盗みを働いたということで、また末代までも村八分になることを懸念して、凛は「自分が盗んだ」と白状し、決して入ってはいけない山の奥深くへ入っていくのでした。

 

 


恐らく、人間扱いされない村での生活に疲れ果て、こんな地獄で暮らすくらいならもう死んでもいいと思ったのでしょう。

 

 

しかし山犬が棲む怖ろしい山奥で、獰猛な動物を追い払ってくれたのは、不思議な老人「山男」でした。

 

 

 

 

 

全く言葉も話せませんが、やがて心が通じ合った二人は、獣や森の恵みを食べて、心穏やかに暮らします。

 

 

 

 

それは凛にとって、初めての人間らしい暮らしでした。

 

 

 

 

 


しかし、幼馴染である泰蔵(二ノ宮隆太郎)のお節介により

 

 

 

見つけ出されてしまった凛は、村に連れ戻され、さらにおぞましい扱いを受けることに……

 

 

 




日米共同制作。
プロデューサーや撮影に外国人スタッフが入ることで、神懸かったモノが宿った敬して遠ざけるべき場所として鬱蒼とした森を映し出すカメラワークが見事です。

 

 


 

 

 

こちら同様、貧しい暮らしの小屋、着古された着物など、美術面も秀逸でした。


米国を拠点とするミュージシャンであるアレックス・チャン・ハンタイ が紡ぎ出す、不安を駆り立てるような前衛音楽が、より一層、森の神秘さと人間の恐ろしさを表現しています。
 

 

 


そしてなんといっても、凛を演じた山田杏奈さんの凄さ!!!

 

 

 

 

もし彼女が主演でなかったら、これだけのクォリティは出せなかったと思います。
存在するだけで全てを語り尽くす、素晴らしい女優さんです。




驚くべき変貌で「山男」になりきった森山未來。

 

 

一言もセリフがなく、表情さえも封印されながら、眼と身体表現のみで、野蛮さと神聖さを兼ね備えた「人ならざる者」の存在を体現しています。




娘の命よりも、田畑を返してもらうことの方が大切で、子供2人に対する愛情など欠片もない卑屈な父・伊兵衛。
「凛は神隠しにあったのだから探すな!」と泰蔵を止めたり、最後の夜に握り飯を与えたのが、せめてもの親心だったでしょうか。

 


 

 


泰蔵が凛に思いを寄せているのを知っていて「私と夫婦になれるなんてありがたいと思いなさいよ」と詰め寄る春(三浦透子)。

 

 


その他のキャストもそれぞれに自分勝手で、心が弱く、嫌な感じがこびりついていて素晴らしかったです。

欲を言えば、時々東北弁が難しすぎて細かいニュアンスが分からず、字幕が欲しいと思いました。





先代の罪を背負い差別されて生きる父子。
稲は枯れ食べるものもない。
今日生きるのに必死の村人たち。

 


そんな環境にあっても人を見下すことを止めない人間の性。

その醜さ。
そんな環境だからこその、心の貧しさなのでしょうか。
どうしようもない不安や憤りは、助け合うことではなく、誰かを傷めつけることでしか癒されないのでしょうか。

 


いつもいじめられ虐げられるのは、弱い人間。
そんな人間は、生贄にするのさえ当たり前だと扱われる。

 

 

 


祖父が「火事を出した」といっても、村を全部焼き払うほどの放火犯ではなかったでしょう。
それでも孫子の代まで村八分は続き、いたぶられる。

 


生まれた赤子を、すぐに川に捨てなければならないのは、自分たちの欲望の後始末なのに、なぜ川に捨てに行ってくれた凛に敵意をむき出しにしてさげすむのか。

 

 

 


そういう非情さを見せつけられた後のラストシーン。

 


このまま滅びゆく村を背にして歩いてゆく凛の後ろ姿は、いっそ清々しいとさえ思いました。
 

 



程度の差はあれ、今も同調圧力の犠牲になる人は後を絶ちません。
閉鎖的な村社会だけでなく、SNSという世界では、見ず知らずの人からの心無い攻撃にさらされたりもします。



自分らしく生きること。

人間らしさとは、何なのか。



凛の物語と彼女が下した決断は、時代を超えて私たちに語り掛けています。