ぼくたちの哲学教室 | akaneの鑑賞記録

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北アイルランド紛争によりプロテスタントとカトリックの対立が長く続いたベルファストの街には、「平和の壁」と呼ばれる分離壁が存在する。1998年のベルファスト合意以降、大まかには平和が維持されているが、一部の武装化した組織が今なお存在し、若者の勧誘に余念がない。争いの記憶は薄れやすく、平和を維持するのは簡単ではない。

 

その困難はケヴィン校長と生徒たちの対話の端々にも現れる。宗教的、政治的対立の記憶と分断が残る街で、哲学的思考と対話による問題解決を探るケヴィン校長の大いなる挑戦を映画化したのは、アイルランドで最も有名なドキュメンタリー作家のナーサ・ニ・キアナンと、ベルファスト出身のデクラン・マッグラの二人。およそ2年に及ぶ撮影期間中にパンデミックが起こり、インターネット上のトラブルという新たな問題が表面化するなど、子どもをめぐる環境の変化も捉えている。ケヴィン校長と生徒たちによる微笑ましくも厳粛な対話がニコラ・フィリベールの『ぼくの好きな先生』を彷彿とさせ、国内外の映画祭で多くの賞を受賞した注目作!
 

 

 

 

 


北アイルランド、ベルファストにあるホーリークロス男子小学校。ここは、4歳から11歳までの男子が通うカトリック系の小学校です。

 

 

 

密集する労働者階級の住宅街に北アイルランドの宗派闘争の傷跡が残るこの地域は、混沌とした衰退地区であり、独立派と維持派の政治的対立により、地域の発展が遅れています。犯罪や薬物乱用も多発し、青年や少年の自殺率はヨーロッパで最も高くなっています。

 

 

 

 


この学校の名物校長は、ケヴィン・マカリーヴィー。

 

 

 

柔術の黒帯を持ち、エルヴィス・プレスリーが大好きで、威厳と愛嬌を兼ね備えたケヴィン校長が受け持っているのは「哲学」の授業。

 


「どんな意見にも価値がある」という彼の教えのもと、子どもたちは異なる立場の意見に耳を傾けながら、自らの思考を整理し、言葉にしていきます。

 

 

 

授業に集中できない子や、喧嘩を繰り返す子には、先生たちが常に共感を示し、さりげなく対話を持ちかけます。
学校中で起こるあらゆる喧嘩や口論は、校長室の外にある「思索の壁」に書き出されます。

 

 


自らの内にある不安や怒り、衝動に気づき、コントロールすることが、生徒たちの身を守る何よりの武器となるとケヴィン校長は知っているからです。
かつて自分自身が、暴力で問題解決を図ってきた後悔と挫折から、新たな憎しみの連鎖を生み出さないために、彼が導き出した答えが「哲学」の授業なのです。

 



なかなか考えさせられる、興味深い映画でした。

まずは、ケヴィン校長先生のキャラクターが良いですね。
本当にパワフルで陽気で推進力があって、全力で子供と(人と)向き合っているところ。

 


とことん会話をする。
自分の気持ちを言葉や文字にする
色々な意見があることを認識する



こういう行動を繰り返すことによって、自分の感情をコントロールしたり、相手を認めたりすることができるようになります。

でも子供だから、いや人間だからそれを忘れてしまうこともあり、喧嘩を繰り返したり、落ち込んでしまう子もいますが、先生たちは決して大人の意見を押し付けたり管理したりしません。

 

 

 


「勉強にもついていけないし、もう学校を辞めたい」と泣いてふさぎ込んでいる子も、先生がずっと話しかけて対話をしているうちに、「僕の妹、本当に可愛いんだ!もう言葉を話せるんだよ!凄いでしょ!」と目をキラキラさせて話し出したり。

 

 

 

子供たちの日々の自然な姿、表情を見ているだけで、様々な感情が呼び起こされました。

 

 

 

 

 

 


このような教育は非常に特殊ですし、親にも理解されない部分もあります。
そのため、親に対しても「親子の対話をどうすれば良いか」といった講習会を開いたり、家庭訪問をしたりするのです。

 

相手がたとえ親であってもすべてを疑問に思うように勧め、自分なりの答えを導き出せるよう、先生が親の役になって生徒と対面し、一対一で、会話のシュミレーションをしたりもします。
「親がこのように言ったら、自分はどう答えるか」を学ぶのです。

 

 



この学校の方針はとても素晴らしく、ここでの経験は、子供たちにとって大きな財産になると思います。
と同時に「小学校」という年齢の問題も難しいと思いました。

 

小学校を卒業して、中学校、高校と進むティーンの年代は、子供と大人の狭間で最も精神的にも不安定です。
麻薬やテロ組織など、悪への誘いも数多くあります。
他の子たちも皆、同じような教育を受けていれば問題ありませんが、もっと荒れた小学校もあるでしょう。

 

学校で身に着けた対話や哲学的な考えは、同等の相手があってこそ成立するもの。
自分以外の多数の若者たちが、彼らの考え方をバカにしたり、攻撃したりすることもあるはず。
親も、このような考え方を理解できなければ、対立の原因となります。
そうなったとき、彼らのアイデンティティが保たれるのだろうかと、心配になりました。


 

 


こちらは幼稚園ですが、この映画も同じように対話の大切さ、発想の自由さを尊重した映画です。
 

 

 





日本人が持つ細やかな心遣いや優しさは、とても優れた国民性だと思いますが、自分で考えて自分の意見を持ち、それを言葉で相手に伝え、理解してもらう、ことに関しては、消極的な部分があると思います。

みんなの意見に従っていればいい
出る杭は打たれる
失敗したら連帯責任&再起不能
弱い立場の方を攻撃する


こういったネガティヴな言動が、最近とみに目立つような気がします。

国民の生活に余裕がないことも原因かもしれません。


ワガママを通すのではなく、

人には様々な考え方があることも認め合う
失敗してもやり直せる


そういう心の余裕、社会の余裕が必要ですね。