赤坂大歌舞伎「夢幻恋双紙 赤目の転生」 | akaneの鑑賞記録

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見終わった後、かなりどんよりします。病みます。
でも本当に素晴らしい作品でした。
歌舞伎は本当に面白いんですけど、やはり中には感情移入できないようなストーリーもあります。
当時の人々にとっては、最先端のパフォーマンス、トレンディードラマでしたけど、400年前からのお芝居ですからそれは当然です。
そのギャップを様式美や役者の力量で魅せてしまう凄さや楽しさもあるのですが、「今」の観客の心情に沿った芝居も創作して行かなければなりません。


途中、下座音楽も入りますが、基本的に音楽はピアノだけ。

これが世界観にとても合っていて素晴らしい。
セットも「影絵」をモチーフとしていて、どこか「日本昔話」のようなノスタルジックさがある。
作・演出は若手劇作家の蓬莱竜太さん。
芝居の流れ、テンポ、転換のタイミングなどが、小劇場で鍛えられてきただけあって非常に効率的で心地よいです。
着物の肩上げと裾上げを外すだけで瞬時に大人になる、裏返して着るとつぎはぎだらけの貧しい着物になる方法などは、歌舞伎の引き抜きやぶっ返りのようで感心しました。
言葉に関しては、一度蓬莱さんが書いたものを江戸言葉に変換したけれど、そうなると「言葉の力が薄れてしまう、蓬莱さんの紡いだ言葉が伝わらない」ということで元に戻したそうです。
これに関しては、語尾とか呼称とかそういうところだけでも江戸言葉に統一してほしかったなと。
現代でしか使わない単語などはそのまま使っても構わないです。
でもいわゆる「世話物」の世界なので難しい言葉はないし、やはり着物を着て長屋に住んでいる設定なのですから、TVで放送している時代劇程度でもいいから江戸っ子の言葉でやってほしかったと思います。
二番目に転生する勘九郎さんは、結構威勢の良い役なので、時々巻き舌っぽい台詞を話すんですが、やはりパッと江戸の空気感になるんですよね。

刃物を咥えての見得もありましたし。
せっかく歌舞伎役者で演じるのですから、もう少し歌舞伎に寄せてほしかった。
このあたり、まだ初めてのタッグだから、お互いに遠慮しあったりした部分もあったんじゃないかな。


---以下はネタバレです---

 

 

 

 

 

 

長屋近くの原っぱで遊んでいる子供たち。
ジャイアンのようなガキ大将、剛太(猿弥)、太鼓持ちっぽい末吉(いてう)、歌にヒロインの座を奪われた静(鶴松)、ダメダメなのびろう=太郎(勘九郎)、そして最近越してきた美人な歌(七之助)。
なんとなく「どらえもん」のような…。
多額の借金を負った病気の父親を介護している歌。
兄の源乃助(亀鶴)は酒に溺れ家にも寄り付かず、危ない仕事をやっている様子。
美しい歌に憧れていた太郎は、日増しに貧しくなり長屋の人々からも孤立していく歌と所帯を持ちますが、結局どの仕事も長続きせず、歌に廓で働かせて寝ているばかり。
とうとう源四郎に脅されて、ヤバいお金や死体を埋めたりする仕事にまで手を出しました。
悲観した歌は家を飛び出してしまいます。
仕事をやめさせてほしいと言い出した太郎を、源乃助は「歌を幸せにすると約束したのに!お前は何をやってもダメなんだ!」と土砂降りの中、切り殺してしまうのでした。

 

 

場面が変わるとまたいつもの原っぱで遊ぶ子供たち。
今度の太郎は強気です。右目が少し赤くなっているようです。
ただ、不思議と以前に埋めたお金のことは覚えていました。
「仕事もせず弱気だった」自分を変えるため、その金を元手に金貸しを始め大成功。
大きな屋敷を建て、高額の薬も与えて歌の父親も元気になりました。
大工の剛太や源乃助は太郎に顎で使われています。
羽振りの良い太郎ですが、次第に傲慢になり、静を愛人にしていながら歌のことは束縛して外にも出しません。
そんな生活に息苦しさを覚え、やはり歌は飛び出して行ってしまうのでした。
酷い目にあわされた剛太は太郎の屋敷に火を付け、再び源乃助には「歌を不幸にしたな!」と切られ、業火の中、太郎は死ぬのでした。

 

 

場面が変わるとまたいつもの原っぱ。
傲慢な自分を悔いた太郎、今度はみんなに好かれる人気者です。
自我を通さず、人のために生きる…。
剛太の思いを叶えてやり、剛太は歌と所帯を持ちます。
ささやかながらも幸せに暮らしている二人。
でも太郎はとうとう自分の気持ちを抑えきれなくなりました。
「歌と一緒になるのは俺のはずだったのに!!!」
結局また太郎は源乃助に切られるのですが、今度は「全てはお前のせいだ!」と太郎は源乃助を殺してしまうのです。

 

 

場面が変わるとまたいつもの原っぱ。
しかし現れたのは別の太郎。
そして源乃助として現れたのは…太郎!
歌が本当に愛していたのは…

 

 

こうして延々と繰り返されていくであろう、終わりのない輪廻転生。
死ぬことも許されない生き地獄。
この芝居の始まりもすでに何回目だったのだろう。
この先どこまで続くのか、誰も救われない物語。
人間の業や仏教の教えとか、そういう日本的な因縁の恐ろしさがひたひたと忍び寄ってくるような芝居でした。
歌舞伎座だったら、このあとに楽しい舞踊で打ち出ししてもらいたい感じです。
後味の悪いストーリーで、役者がいきなり芝居を中断し「本日はこれぎり~」と言って幕引きをするのは、お芝居の世界に取り込まれないように「これは作り物のお話ですよ」と現実に引き戻すためだそうです。
そういうのがないと、ちょっとあと引きずりますね。これは。
「四谷怪談」なんかも相当後味悪いですけど、どこか「これは作り話」と思えるんです。やはり200年も前に書かれたお話であり得ない展開だし。
でも今回のは、時代設定は江戸時代だけど、今の作家が書いたリアルさ、今の人間の心情に訴えかけてくるものがあって、それがとても恐ろしい。
このストーリーを現代に置き換えても、さらにはハリウッドでリメイクされたとしても十分ホラーとして通用すると思います。
それより何より、今現在もこの輪廻転生が繰り返されていて、どこかに太郎と歌がいるかもしれないと思わずにいられません。
空虚に生きている男女がいたら、二人に体を乗っ取られてしまうような怖さがずっと付きまとっています。


先ほども書きましたが、もう少し歌舞伎に寄せてブラッシュアップして行けば、蓬莱さんの名前は少し薄まってしまうかもしれませんが、昨年の「廓噺山名屋浦里」とともに、今後の中村屋そして歌舞伎界の財産となる素晴らしい作品だと思います。
個人的には、いてうさんが活躍していて嬉しかったな。
芝翫さん(橋之助)、福助さん、扇雀さんのいない中村座公演。
少し寂しいけれど、しっかりと世代交代が進んでいる、未来への道が見えていることがとても頼もしい。
さすがに勘三郎さんの息子たちは、新作をプロデュースするセンスも冴えていますね。