和はそのまま足早に駅には向かわず反対方向へ歩き出す。いくら山下の姿は見えないとは言え、どこに潜んでいるとも限らない。もしかしたらまだいるかもしれないと思う場所に足を向ける気にはなれない。和は歩いて次の駅へ向かった。それにしても山下はどうしてあの駅にいたのだろう。誰かを探していたようだ、和があの駅を利用していると知ったのだろうか。でも、もしそうだったとしても今更山下が和に会いに来る用事はない筈だ。母はもういない、山下に金をくれてやるような酔狂な女はいないのだ。それとも山下は母が死んだ事を知らないのだろうか。だが例え母が生きていたとしてももう山下などに金を恵んでやるような事が無い事は分かっている筈だ。やはり山下があの駅に現れたのは偶々なのだろうか。

 そんな事を考えながら歩いていたらいつの間にか次の駅に着いていた。和は辺りを用心深く見回す。ホームに上がっても出来るだけ目立たない場所に立ち電車が来ると中に山下がいないのを確認するようにして滑り込むように乗り込んだ。夕方の通勤ラッシュにはまだ早かったのでそれ程混んではいない、それでも和は席には座らずドアの傍に立った。もし山下の姿を見たら直ぐに降りられるように。後ろに人の気配を感じると一瞬、ビクッとしてしまう。たった一瞬、見ただけでこうまで用心してしまう自分が情けない、何も悪い事などしていないのに。和はこんな風にこの先ずっと山下の影に怯えながら生きていかなければいけないのだろうかと思う。そう思うと悔しくて遣り切れない。そうして思う、あの男さえいなくなってくれれば和の過去を知る者は誰もいなくなるのにと。それから一週間、和は山下の姿を見る事はなかった。あれはやはり偶然通りかかっただけだったのかも知れない。そんな風に思い始めた矢先、とうとうその日はやって来た。

「やあ」

改札口に向かっていた和を後ろから呼び止める声が聞こえた。瞬時にそれが誰か分かった。

(振り返っては駄目!)

そんな声が心の奥で聞こえたがその意思に反するように和は徐に後ろを見る。そこに居たのは紛れもなく山下だった。

「やっぱり、おまえ和だろ」

山下は和を見下ろしながらニヤッと笑う。心臓が凍り付くような気がした。

「なんか、昔と随分と違っているから違うかもとは思ったんだけどな。やっぱり俺の目に狂いはなかった。前に電車に乗っているおまえを見てよ、その制服に見覚えがあったんだ。昔サッカーチームにいた子の姉が同じ制服だったからよ。明星学園か、随分良い学校に行ってるじゃないか。この駅にいればいつかお前に会うんじゃないかと思って仕事の休みに見に来ていたんだ」

地面が大きく揺れる様な気がした。頭が真っ白になっていく、何も考えられない。

「会いたかったよ、和。そんな成りをしているが全然変わってないじゃないか。背は伸びたようだが相変わらず細くて少年みたいな身体つきだ」

山下はそう言いながら和の身体を嘗め回すように見る。蛇のようなその目にゾッとした。あのサッカーのコーチをしていた面影などまるでない。気持ちが悪い、吐きそうだ。

「何だよ、そんな顔をして。そう言えばおまえの母親死んだんだってな。アパートの方に行ったらおまえらいなくってさ、管理人に聞いたら部屋で首釣っていたって?管理人、零していたぞ、お陰でアパートの価値が下がったって。でも可哀想な事したな。心配したんだぞ、おまえの事。母親がいなくなったのなら俺が面倒を見てやらなくっちゃいけないと思ってな」

喉が干からびる、反論したいのに声が出ない。早く、早くこの場から去らなくてはと思う。

「懐かしいだろう、俺はおまえに会いたかったんだ。何て言ったって俺はおまえの初めての男だ。どうだ?あれから他の男の味でも覚えたか?」

山下の気持ちの悪い笑みが和の全身を這う。あの時の感触が蘇る。胃液が喉の奥に込み上げる。

「でもおまえ、なんか良い暮らししてるみたいだな。明星なんて行っているくらいだからな。俺はよ、おまえら親子のせいで今はこんな始末さ」

山下は自分の全身を和に見せるようにする。

「今じゃ、その日暮らしの日雇い生活だ。それというのも全部おまえらのせいだ。おまえは俺にその責任を取る義務があるんだ。分かるか?」

山下の手が和の肩に伸びてきて思わず後ずさりする。

「ち、近寄らないで!」

やっと声が出た。

「何だ、その態度は。良いか、おまえは俺の女なんだよ。分かっているだろう、だから言う事を聞くんだ。さもないと学校中に俺と良い仲だってばらすぞ。俺はよ、おまえの身体の隅々まで知り尽くしているんだ。この意味、分かるだろう、おまえだってもう小学生のガキじゃないんだ」

屈辱的な言葉に全身が小刻みに震え、怒りが沸き上がる。

「ちょっと、おじさん」

和が何も言えずに突っ立っていたら山下の後ろから声が聞こえた。山下が振り返った拍子に声の主の顔が見えた。朝陽だった。その後ろに浩太もいる。もしかして今の山下の言葉が聞こえていたのではないかと思う。

「何だ?」

「その子に何か用?」

威圧的な山下に臆する事もなく朝陽は応じる。

「何だ?お前らには関係ない。それとも何だ?お前の男か?」

山下は答えながら和を見てまたニヤ付く。

「色気づきやがって、やっぱりあの母親の血を引いているからな」

和は唇を噛む。山下が彼らに余計な事を口走ったらどうしようという不安が沸き上がる。

「その子は僕達のクラスメイトだよ。おじさんこそ誰?」

「俺か、俺はこいつの、」

そこまで言って山下は和の身体を眺めて笑う。このまま黙っていたらこの男は何もかも喋ってしまうと思う。

「やめて!」

思わず叫んだ。

「帰って、二度と私に近寄らないで!」

「おまえ、誰にモノ言ってる?あん?そんな事言って良いのか?もし、あの事を、」

喋りかけた山下を和は突き飛ばして改札口の中に走り込む。兎に角、二人の前から離れなくてはと思う。例え山下が追ってきても浩太達にあの事を知られるよりはずっとましだ。改札口の中に入った和は後ろを振り返る。すると山下の前に回った朝陽が彼の行く手を阻んでいる。和はそのまま走ってトイレの中に駆け込む。喉まで上がってきていた胃液を吐き出す。何度も吐いて漸く落ち着きを取り戻す。

(どうしよう…)

山下は朝陽や浩太にあの事を喋ったのではないかと思う、でも戻って様子を窺う勇気もない。不安と恐怖で全身がまたガタガタと震えだす。

(もう終わりだ)

そんな思いが込み上げる。和は顔を覆う様にしてその場に蹲る。嗚咽が込み上げる。きっとあの男は何もかも喋ったに違いない。もう学校へへは行けない、そんな風に思う。何もかも終わりだ。

「お姉さん、大丈夫?」

その声に顔を上げると小学生くらいの女の子が和を覗き込んでいた。

「気持ち悪いの?」

「だ、大丈夫…」

そう言った瞬間に涙が込み上げた。そんな和に女の子は自分の持っていたハンカチを差し出した。レースの刺繍の入った綺麗なハンカチだ。身なりも良い、きっと良いうちの子なのだろうと思う。

「使って」

「大丈夫…自分の持っているから」

「お姉さん、何か悲しい事があったの?」

「ううん…そうじゃないの。ただ…」

「じゃ、誰かに苛められたの?」

「…そうね、そうかも知れないわ」

 

 

    <肆拾弐(四十二)へ続く>