「酷い事されたの?」

「…ええ。とてもとても酷い事…」

「そんな奴、きっと罰が当たるよ」

「罰?」

「うん、悪い事をした人には必ず罰が当たるんだよ」

「…そうだと良いんだけど」

「本当だよ。だからお姉さんも元気出して、きっとお願いは叶うから」

「お願い?」

「うん、酷い事した人に罰が当たってもうお姉さんを傷つけませんようにって。私がお願いしてあげるから」

ぼんやりした目で和は目の前で微笑んでいる子を見る。変わった子だと思った。でも見ず知らずのこの子の言葉に何処かホッとしている。

「ありがとう」

「うん」

女の子が頷いた時、外から誰かの名を呼ぶ声が聞こえた。女の子はその声の方に顔を向ける。はっきり聞こえなかったがどうやらこの子を呼んでいるようだ。

「あ、もう行かなければ。お母さんが呼んでいる」

そう言って女の子は手を振って出て行った。和はゆっくりと立ち上がる。まだ手の震えが止まらない。そっとトイレから出て辺りを見回す。今の女の子も浩太達の姿も見えない、山下ももういなかった。全身から力が抜けていくような気がした。山下は何処迄喋っただろう、きっと全部話したに違いない。明日からどうすれば良いのか分からない。もうこの駅を通るのも怖い、学校へも行けない。きっと山下はこれからも学校やこの駅の近くに現れるに違ない。いつかは家まで知られてしまうかもしれない。叔父や叔母にもさっきみたいな事を話すかもしれない。そうなったらもう家にもいられない。みんなが和を汚いと思うに違いないと思ってしまう。電車に乗っている間も、さっきの山下の顔や言葉がずっと頭の中を旋回していた。そしてその度に吐きそうになる。

「あなた、大丈夫?」

和の様子を見ていた女性が声を掛けて来た。

「随分、気分が悪そうだけれど」

「だ、大丈夫です。ちょっと風邪気味で…でも次の駅を降りたらすぐに家なんで」

「そう?あんまり辛いようだったらどこかで休むか、おうちの人に迎えに来て貰った方が良いわよ」

「はい…ありがとうございます」

今日はこれで二度目だ。端から見てもおかしいくらいに動揺しているという事なのだと思う。山下の魔の手がもう直ぐそこまで来ている。どうやったら逃れられるのだろうか。まるでアリ疑獄に落ちたアリのようだと思う。電車を降りてホームに立つとホームが大きく揺れる様な感じがした。足が重い、もう何も考えられない。和はふらふらした足取りでどうにか家に辿り着く。

「ただ…いま」

玄関に入った途端、天井が落ちてくるような感覚が走って、そのまま崩れ落ちた。

「和ちゃん!」

駆け寄ってくる叔母の姿が目の端に映ったがそのまま意識は遠のいていった。

 遠くに人影が見えた。誰かがじっとこっちを見ている。和はゆっくりとそこに歩いていく。深い靄の中からその人影の姿が徐々に表れる。

「お母さん…」

母だった。母は何か言いたそうな目で和を見下ろしている。その目は責めているように見える。

「あなたのせいで…」

母は和を睨むようにして口を開いた。

「あなたのせいで私は死んだのよ。私は本当は死にたくなんてなかったのに…あなたが私からあの人を取ったからよ」

母の恨みがましい声が頭の奥に響くように入ってくる。和は耳を塞ぐ。でもどんなに力いっぱい耳を塞いでもその声は頭の中に忍び込むように聞こえる。

「和は私が死ねば良いと思っていたのでしょう。お母さんが死んで嬉しい?」

声が纏わりつく。そんな事は思っていない、でもあんな事になったのは母のせいだという思いは拭い去れない。

「だって、お母さんが悪いんですものね。お母さんのせいで和は傷物になったのだもの。和が汚れちゃったのはお母さんのせいだものね」

「やめて!やめて、やめて!」

頭を振ってそう叫ぶと母の姿はふっと消えた。

「お母さん…?」

「そうさ、おまえは俺の女なんだからな」

ゾッとする様な声が耳元の直ぐ傍で聞こえた。振り返ると山下がニヤ付いた顔で和を見下ろしていた。

「やっと見つけたぞ、おまえは俺の物だ」

「嫌!」

和は伸びてくる山下の手を払う。

「そんな事をしたって無駄さ。もうみんな知っているぞ。俺とおまえの仲を。みんなおまえが俺に抱かれた事を知っているんだ」

和はさらに強く耳を塞ぐ。嫌悪が沸き上がる。そんな言葉は聞くだけでもおぞましい。

「あんたなんか!」

和は思わず叫び声をあげる。

「あんたなんか死ねば良い!」

そう言った瞬間に山下の姿は消えた。そして自分の叫び声に目を覚ます。和はベッドに横になっていた。家に帰ってからの記憶が抜けている。部屋のドアがそっと開いて思わず目を瞑る。そんな筈はないのに山下が入って来たのではと思ってしまう。

「和ちゃん?」

叔母の声に和は目をゆっくりと開ける。

「何だか、声がしたようだったから。目が覚めたのかなって思って、大丈夫?」

叔母は和の額をそっと撫でる。

「変な、夢を見て…」

「驚いちゃったわ。昨日帰ってきたらいきなり倒れるから。最近遅くまで勉強していたから疲れが出ちゃったんだろうってお医者様が仰っていたけど」

「昨日…?」

「ええ、そのままずっと眠っていたのよ。時々魘されていたし、悪い夢でも見ていたの?」

「なんか…よく覚えていない。そう…昨日なんだ…あ、学校は…」

「今日はお休みしますって連絡しておいたわ。おかゆ作ってあるのよ。今、持ってくるわね」

いつの間にか一日経ってしまっていた。明日は学校へ行かなければいけない、そう思うと怖い。行きたくない、また山下に会うかもしれないと思う。もし浩太達が山下から何もかも聞いていたとしたら、そう思うだけで胸が詰まるような感覚に襲われる「酷い事をした奴には罰が当たるから」昨日、会ったあの不思議な少女の言葉が蘇る。本当にそうなってくれれば、山下が死んでくれれば良いのにと願ってしまう。そうすればもうあの男の影に怯えながら生きなくても良い、和の秘密を知っている者はこの世からいなくなる。そうすれば救われる。そう思わずにはいられない。

 

 

     <肆拾参(四十三)へ続く>