こんな事言うつもりなどなかったのに、そう思っていてもそれは和の表情には何も現れない。いつの間にか心を隠す事が普通になってしまっている。

「ど、どうして、それを…」

浩太は思わず立ち上がって和を見下ろす。その顔には動揺と怒りが現れているように見える。言ってはいけない事を言ってしまったと和は感じる。

「どうしてって…だって、私、」

元々知っていた、そしてその事をネットで詳しく調べた、などとは言えない。浩太はそんな和の様子をじっと見ている。もしかして浩太は和が昔サッカーで対戦していた相手だと気が付いたのだろうか。ふとそんな思いが過ぎる。でも浩太はそのまま和から視線を外す。やはり、気付かない。そう思うのと同時に溜息が出て和は視線を落とし、言い掛けた言葉を濁す。

「何でもない、余計な事喋っていないでさっさと片付けましょう」

きっと浩太にとってあの頃の思い出などどうでも良い事なのだと思う。

「余計な事?」

和の言葉に浩太は眉間にしわを寄せるような表情をした。

「ええ」

「そういう、」

さっきの言葉に対して怒っているのだと思った。確かに口にするべきではなかったと和も思った。

「ごめんなさい、あんな事言うべきじゃなかったわ」

和がそう言うと浩太は出掛けた言葉を飲み込むようにしてまた口を開いた。

「で、でも、どうして君が…」

どうして和が浩太の母の事件の事を知っているのか、きっとそう聞きたいのだ。だってあの頃同じ時を過ごした事があるのだから、そう答えたいが自分から言うのではなく、浩太に思い出して欲しいと思っている自分がいる。それは、何故なのだろう、和は自問自答する。

「ただ…覚えていただけよ」

和は視線を落としたまま応える。

「覚えていたって?」

「記憶力が良いのよ、私は。あの事件の被害者の名前を憶えていたの。それでちょっとカマをかけてみただけよ。同じ苗字だったから」

「カマって…」

浩太は和の返事に釈然としない顔をしている。そりゃそうだろうと思う、いきなりあなたの母親は殺されたのでしょう、なんて言われたら誰だって気分が悪い。その上カマを掛けただなんてそんなふざけた事言われたら。そんな事分かっているのにどうして言ってしまったのだろう。きっと和は浩太に腹を立てていたのだ。それは何故なのか、浩太がいつまで経っても気付かないからだ。こんなに何度も二人で一緒にいても、こんなに近くにいてもあの一緒にサッカーをやっていた相手だと全く気付かないからだ。気付いて欲しいなんて思っていない、そう思っていたが、自分だけ受験の日から気付いていたのに、という思いが胸を占める。仕方のない事なのに何故か不公平だと思ってしまう。

「上條君が笑わないとか楽しい事とか言うから、ちょっと煩わしかったのよ。でもまさか当たるとは思わなかった、本当の事だと分かっていたら言わなかった、無神経だったわ。ごめんなさい、でも誰にも言わないから」

本心を悟られまいと和は尤もらしい言い訳を取り繕う。

「でも、上條君って強いのね、そんな事あってもそんな風に普通にしているのだもの」

そう、あまりにも普通に日常生活を送っている事に和は納得出来ないのだ。和はあの事があってから何もかもがすっかり変わってしまった。笑う事すら出来ないのに、和に起こった事よりずっと酷い事を背負っている筈の浩太がどうしてこんなにも普通でいられるのかが分からないのだ。そしてその事にわけもなく腹が立つ。

「べ、別に強いわけじゃ…」

そう言った浩太の瞳に憤りのようなものが浮かぶ。それを見て和は少しホッとする。触れられたくない過去を持つ者同士なのだ、浩太だって何もかも忘れて生きているわけではないのだと。彼も心に闇を抱えているのだ、誰にも理解して貰えない、誰にも話せない苦しみを。

「おまえに、」

「え?」

「お前に何が分かるんだよ、って顔しているわよ」

和がそう言うと浩太は一瞬、目を逸らす。それは和の言葉が当たっているからだと思う。

「お、俺は、別に」

浩太の心の内が少し分かって和はやはり浩太も同じなのだと思った。そしてその事に安堵する。秘密を抱えているのは和だけではないと。和はそのまま作業の続きをする。浩太も席に着いて同じようにする。その後は何も喋らなかった。浩太も話し掛けては来なかった。

「次のホームルームはこのアンケートの結果にのっとってうちのクラスの演目を決めましょう」

アンケートの集計が終わると和はそう言い残して先に教室を出た。浩太は何処か呆気にとられた顔をして和を見ていた。

 教室を出て和はどうしてあんな事を言ってしまったのだろうと思う。人と深く関わる事をずっと避けて来たのに、あれでは藪蛇だ。浩太の事が気に掛かるのは昔、一緒にサッカーをしていたからなのか、それとも浩太にも消して消す事の出来ない過去があるからなのか。何もしていないのに、何も悪くないのに理不尽に降り下りて来た災い、どんなに抗っても消せない、消えない過去。どんなに望んでも消えてくれないシミ。心はいつになったら軽くなるのか、いつになったら解放されるのか。そんな日は一生来ないように思える日々。浩太もきっとその中で生きていると、和と同じなのだと思いたいのだ。でも決して同じではない、浩太は和の様に汚れていない、そんな風に思ってしまう。

 二学期は予想以上に忙しかった。体育祭を皮切りに学園祭もある。その間に中間テストもある。学園祭が終われば期末試験。しかもこの学校はこういう行事にも力を入れていて手抜きなど出来ない。こういう事で学業がおろそかになるようでは社会に出てもやっていけないという考えだ。自立と協調性、自主性が求められる。勉強を理由に行事に参加する事を拒む事は校則違反にも等しいと担任に言われた。でも誰も文句を言わない、みんなそれを承知で入学してきているという事だ。浩太とはあれから特別な話をする事もなく毎日の雑務に追われていた。浩太は案外しっかりと委員長を熟していてちょっと感心した。昔は結構憎まれ口を叩くようなところもあったと記憶しているが今はそういう片鱗はない。それはやはりあの事件の影響なのではないかと思ってしまう。それでもそんな浩太を少し頼もしく感じてしまった。

体育祭の準備も大変だったが案外面白かった。みんなで一緒に頑張るという事をするのが久し振りのような気がした。サッカーをやっていた頃の事を少し思い出した。そうすると嫌な事をほんの少しの間だけ忘れていられた。

 

 

   <参拾陸へ続く>