人の世の不思議 出会い その② | われは河の子

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 私は主に健康産業で、ずいぶん職を転々としましたが、全盛期であり、一番面白く充実していたのは、やはり年間300泊の出張で全国を車で駆け巡った家庭用鍼付きバイブレーター「シンアツシン」の営業時代でした。


 この仕事における私のデビューはなかなか壮絶かつ勇壮な物でした。


 ハローワークで求人票を見つけて応募し、社長以下幹部の面接を経て採用されて、まずは道東帯広方面に出張に出るT専務に同行して研修を受けて仕事を覚えることになりました。


 最初数日は札幌市内に設定された会場での営業で、それからいよいよおよそ2週間の移動出張です。

 その後2018年の北海道胆振東部地震で大きな被害を受けることになる厚真町をはじめ、むかわ町、日高町、門別町、新冠(にいかっぷ)町と、サラブレッドロードを東に向かいました。

 この当時はシンアツシンは売れに売れた時代で、専務もとても営業力のある方だったので、毎日のように1台26万円以上もする機械が売れました。

 もちろん1日待っても1人のお客様も来ない日もありましたが、そんな日には専務から、仕事の心構えとか、営業のコツとか、治療指導の細かいやり方などをいわば座学として教えていただきました。


 日高町の会場ではコンブ漁のコンブ干しの仕事をしているおばちゃんたちが3人連れでやって来て、私も見よう見まねで施術体験をしてもらったところ購入すると言うことで、契約、お渡しまで一連の仕事を完結させました。驚いたことにその仕事仲間のおばちゃんたちはそれぞれ胴巻きにに現金を30万円ずつ入れて来て、全員が現金一括でその場で支払ったことです。

 これには専務も目を丸くして「どうして?」と訊ねると、「この手の物はだいたい30万円くらいすると思って打ち合わせて来た」ということでした。採取したコンブは数メートルの長さがありますがそれを海辺の丸石を並べた昆布干し場に長く伸ばして日に当て、夜には畳んで小屋にしまい、翌日にはまた干し場に並べて乾燥させるという作業を繰り返して商品化するというものすごく手間と重労働が必要なので、コンブ漁家の女性たちは皆腰を痛めるのが当たり前でした。


 途中温泉旅館に泊まったり、太平洋沿岸の町の宿では海鮮料理に舌鼓を打ったりして、仕事以外での楽しみや旅好きにはたまらない仕事だということを聞かされながら、いよいよ明日には帯広に入るという日のこと、運転中の専務の携帯に電話が入りました。

 電話に出た専務は難しい顔をして受け答えしながら車を路肩に停めました。何か突発的な事件でも会社に起こったようです。

しばらく話した専務が電話を切ると、岐阜県で仕事をしていた営業マンが、高速道路の料金所で後続車に追突されてムチウチになったということでした。もちろんまだETCなどはない時代です。

 先輩社員に落ち度はなく、100対0のもらい事故でしたが、先輩の車の後部は潰れ、首も痛いのでとりあえず病院に行かせたそうです。

 困ったのはその先輩の今後のコースの運営です。実は社内には普段は内勤の女子社員を管理監督する役目の室長という役職の男性社員がいたので、彼も営業経験者なので、室長を代役に岐阜県に派遣することになったということでした。

 

 すると間もなく今度は社長から専務に電話が掛かって来ました。やはり深刻な顔で社長の声に耳を傾けていた専務は突然私を振り返り、

「社長が、『新人を替わりに送り込むことはできないのか?』と言っているけどどうだ?俺は先日のお前の接客から大丈夫だと思うが…」と言われたのです。

 私はためらいもなく「大丈夫です。」と答えました。

 どうせ翌月から自分のコースをもらってデビューするとものと思っていたので、事故った先輩には失礼ですが、いいお試しになると思ったのです。後年のSCS手術におけるトライアル手術ですね🤣


 「行くのはいいんですけど、どうやって行けばいいんですか?」

「大丈夫、明日帯広空港まで送ってやる。そこで航空券も買ってやるし、幾らかの経費は現金で渡す。幸い事故ったFも全く動けないわけではないそうだから、お前は飛行機とJRを乗り継いで、岐阜県の飛騨高山まで行ってくれ、駅でFと待ち合わせて、後のことは引き継ぎ兼ねて彼がやってくれる。宿も取ってくれるし、レンタカーの手配もしてくれるそうだ。」

 そういうことでなんとか段取りも決まり、私は急遽、Fさんの代理でコースを引き継ぐことになったのです。


 驚いたのはその夜電話で連絡を受けたニョウボでしょう?日高から帯広方面を回って来ると言って出かけた旦那がなんと岐阜県まで行くことになったというのですから🤣

 

 そうして翌日、専務は私をとかち帯広空港に降ろして航空券を買ってくれました。

「大丈夫、あくまでお前は今回はFの代理だけど成績が0でも誰も責めない。チラシは毎日入るし、コースをダメにするわけには行かないんだ。 Fだって10日間やって4台しか売れていない。

 でも、もしお前が11台以上売れたらちゃんと歩合もつけてやるから頑張れよ!」

 この会社では基本給が20万円以上ありましたし、自分の車を使って出張する場合車の借り入れ金が4万円支給されました。

 そしてさらに機械の売り上げが11台目から歩合が発生し、売り上げ15台で、翌月の収入が50万円になり、営業マンとして一人前と認められるようになりました。「Fはまだ15台行ったことないけどな⁉️」専務は不敵に笑いました。

 さらに20台で翌月の収入は70万を越え、25台でそれは100万円を越えてエースと呼ばれるようになると専務は説明してくれました。


 実は私は学生時代に飛騨高山は二度も旅行で訪れたこともあり、懐かしさで気軽に代理出張を引き受けたのですが、飛行機に乗るのは予備校勤務時代以来久しぶりのことでしたし、出発のとかち帯広空港も、到着の小牧空港も使ったことはありませんでした。(中部国際空港セントレアは当時まだありませんでした。)

 何よりまったく予定外の4月の本州への出張に期待と不安ではやはり不安と緊張が先に立ってしまいました。


 ところが、そんな緊張でガチガチになって空港内をフラフラ売店などを冷やかしている私の背後から、「みんつちさんじゃありませんか?」という声が掛かりました⁉️


 思わず振り返るとそれはかつて札幌で初めて健康産業に従事して健康サロン「白寿プラザ」の店長を務めていた時のお客様であるKさんのご主人でしたびっくり

 Kさんご一家は80代のお爺ちゃんとお婆ちゃん、そして若いお嫁さんと、幼稚園児のケンちゃんの4人家族で毎日電位治療器の体験に来てくださる常連さんたちでしたが、単身赴任されている息子さんが、たまに帰札されると、一緒に私の店に来てくれるので、顔馴染みになっていました。

 なんとご主人は帯広空港の職員さんだったのです🤩

「どうしたんですか、こんなところで?」

 私は今は新しい仕事に就いていること。

 これから名古屋に向けて出発することを告げました。


 するとKさんは「着いて来なさい。」と言って、戸惑う私を空港ラウンジに案内してくれました。「自由に使ってくれていいからね!」

 そこは豪華なソファなどの調度家具に加えてフリードリンクで、なんと缶ビール(スーパーアサヒ)まで飲み放題でした⁉️


 私は思う存分リラックスして、機上の人となり、その後JRを乗り継いで無事に高山駅でFさんに合流しました。

 彼は温泉国民宿舎を取っていてくれ、翌日は1日引き続きを兼ねて仕事に付き合ってくれるということで、仕事の荷物は彼が使っていた物をそのまま使って、帰りにレンタカーは新潟のフェリーターミナルに乗り捨てにしてくれるようとのことでした。そのフェリーには会社の営業マンが数人乗るので、誰かの車に乗せてもらって札幌に帰って来たらいいとのことでした。


 さて、いよいよ翌日から私がメインとなっての営業旅がスタートしましたが、初日は現在は高山市に編入されていますが当時は宮村と言った山間の小村から始まり、いささか日本昔ばなし感を覚えましたが、1人だけ来場した80代の女性が機械を購入してくれ、幸先の良いスタートを切れました。幾分オラオラ要素のあるFさんは目を丸くしていましたが、「まぁ頑張れよ」の一言を残してタクシーで去って行きました。


 その後も平成の大合併で高山市に併合された久々野町、国府町、上宝村などを巡り、長野県に抜け、松本市や高遠町などを経て、10日間で10台の売り上げを上げることができました‼️

 一躍ルーキー誕生ということで各営業マンからも内勤の女の子たちからも注目を集めることになりました。


 歩合の規定には届きませんでしたが、確か帰ってから社長がポケットマネーで2万円ほどの特別ボーナスを出してくれた記憶があります。


 翌月は道内を廻り、歩合は取ったものの、14台と、一人前の収入50万円には一歩届かず涙を飲みましたが、三月目はまた岐阜県から愛知県を廻り25台とトップセールスを叩き出し、あっという間に新エースの座に着くことができました。

 

 それで9月に九州進出の最初のメンバーに抜擢されて、福岡支店開設に尽力し、年末までの九州滞在中に主任に昇格しました。


 成績は確かに波はありましたが、だいたいコンスタントに15台50万は稼ぐことができ、そこに数ヶ月おきに20台以上の売り上げを上げることができました。


 福岡では支支店開設にやって来た社長に2夜連続で中洲で一番というクラブに連れて行ってもらいました。

 なお福岡支店はT専務が支店長として赴任しました。


福岡のホテルで経理の指導に訪れた本社経理のミカさんと。これから飲みに出かけるところ🍺


こうしたトントン拍子の出世もすべては帯広空港でKさんとの奇跡の再会を果たしたことがきっかけだったと思います。

 それにしても、こんなに地味で目立たない私を何年も経ってからよく見分けられたなぁと感心しますし、見つけて声をかけていただいたことに感謝しています。


 長々の述懐にお付き合いいただきありがとうございました。

 このシリーズは次が最終回の予定です。