翌日の土曜日も前日同様の快晴だった。
加賀谷圭介は何かとてつもなくいいことが起こるような予感で、朝を迎えた。
昨夜はあれから「朋」に向かったが、早々に切り上げ、自宅の書斎に籠って思索に耽った。
『まぁ出たとこ勝負さ!』
彼はそうひとりごちて美樹の帰りを待たずにベッドに入ったのだった。もとより寝室はずっと前から別であるし、それどころかもう何年も彼女の身体を抱いたこともない。
『アイツは孝一郎にくれてやった女だ。』
やがて彼は深い眠りに落ちた。
待ちわびた小西が再び4トンユニック車を駆って加賀谷邸を訪ったのは、午前10時40分を刻んだところだった。
修理工事の開店を待ってすぐに受け出して来たのだと圭介は思った。
ところが、玄関先に現れた小西は昨日よりもなお憔悴した顔つきだった。
「おお、小西君、待っていたんだ。すぐに持ち出すかね?」
そう切り出した圭介に小西は悲しげな顔を振った。
「社長さん、奥さん、誠に相済みませんでした。おかげさまで車も無事に直りました。これ、些細な物でございますが…」
そう言って小西が圭介に差し出したのは地元の守屋百貨店の包みであった。包装紙を見るとこの街では老舗の和菓子屋の五稜堂の物である。
美樹は羊羹ふた竿だと直感した。
しかし、秋田からわざわざ出て来て、地元の菓子を持って来るとは律儀というか、実直というか、不器用さも美樹は感じた。
「まぁ、小西さん,いいんですよ。このようなことなさらなくても…こちら迫館のお土産にお持ち帰りください。それよりどうかなさったの?あなたなんだか顔色がひどく悪いわ。」
美樹がそう言って菓子包味を押し返そうとすると、小西は一層悲しげな顔で、
「いや,奥さん、そして社長さん、実はもうこの岩はキャンセルされてしまったのです。」
そうして大きくため息を吐くとうなだれた。
「私のミスだったのです。約束した納期に間に合わなかったということで、先方がひどく怒ってもう持って来なくていいということらしいのです。」
「なんと…。」二人も絶句した。
「昨日車を修理に出すと同時に私どもの会社の社長に報告したのです。その時は緊急事態だったので、社長も『ああそうか、気をつけて行ってくれ。』ということだったんですが、今朝ほど早く今度は社長から電話がありまして、昨日中には着くはずだったのが私がこんなことをしでかして、この後の工期とスケジュールが大幅に狂ってしまったことに先方は大層なお怒りで、もうこんな物いらない。注文はキャンセルするということだそうです。まさかこんな物、フェリーに乗せて秋田まで持って帰るわけにも行きませんし…お二方には大変お世話になりまして、こんな愚痴を言っても始まらないんですが、ちょっと途方に暮れてしまいまして…いや、これは只今すぐに撤去いたします。お玄関先をこれ以上汚すわけには参りません。」
小西はまさに青菜に塩をという様相だった。
ただでさえ貧相で陰気な顔と姿に貧乏神が乗り移ったようだと美樹は感じた。
しかし、圭介は最初こそショックを受けたようだったが、そこは一瞬にして経営者の顔を取り戻したようだった。幾分毅然とした表情で姿勢を正して、
「それは気の毒だ。突発的な事故のリスクを考慮できずに、一方的に工期の算段をするなんて、建築屋の恥晒しだ。どうせ道内の業者だろう?小西君、納品先のホテルはどこだね?」
「いやちょっと、社長それは勘弁してください。
悪いのは私なんですから、そしてそれを明かしてしまっては先方にご迷惑をお掛けしてしまいますし…」
「まぁ、君の言うことももっともだ。そこでどうだい小西君、君もこんな物をおめおめと関係ない秋田の本社に持ち帰るわけにもいかないだろう?
ここはひとつ私にこの庭石を譲ってくれるわけにはいかないだろうかね?」
「えっ⁉︎今なんと…」
小西は信じかねるという表情で圭介の顔を見つめた。
それはさながら闇夜に警察官に出会ったような顔つきだと美樹は思った。
「いやね、昨日君がこの石を置いて行ったあと、じっくりと眺めてみるとまんざら悪くないんだなぁ。まぁ私もこうして日本庭園を自宅に持つ土建屋だ。学はないが経験はある。一見普通の人にはあるいは醜悪にしか見えないかもしれないが、それこそ昔の人の言う侘び寂びなのかな?
ここに置くのもありかな?と思うようになったんだ。どうかね、100万出そう。キャンセルした先方がそもそもいくらで買ったのかはわからないが、悪い話じゃないと思うが。」
美樹は魂消た。さすがは「北のトランプ」だ。今までも散々と敵も作って、父親から受け継いだ加賀谷組を現在の規模にまで拡張することに成功したのだろう?
夫は高倉の提示した一千五百万という金額を隠し、そこから一千四百万もピンハネしようと企んでいるのだ。
「し、しかし、ご厚意は嬉しいのですが、私の一存では…」
「当然だ。待っていてあげるから社長に相談しなさい。そうだ、そもそも昨日この家の前にトラックを停めたのも何かの縁だ。思い切って300万出そう。あゝ、電話するなら外に出るがいい。私たちがいたら話しづらいだろう?
それから何だよ小西君、君もおとなしく社長に300万なんて言っちゃいけないよ。向こうも驚くだろうからね。まず100万円で話が付きそうです。って報告するのさ。よもや社長だって、みすみす商売の話をオジャンにしてこんなお荷物、(まさにお荷物だな)を背負い込むことの愚かさはそろばんを弾いたらわかることだ。上手いこと行ったら、君は200万をポッポに入れるがいい。なぁに、君の迷惑料だよ。世の中ピンチがチャンスだ。上手く立ち回った物が勝ちだよ。そうだ、今日は土曜明日は日曜だ。どうせ本来なら昨日のうちに丈山渓まで行ってこれを下ろしてそれから苫小牧まで行ってそこから秋田までフェリーか?どのみちそのどデカいユニック車も邪魔だな?
月曜日まで待ってくれれば、銀行からお金を下ろして来て現金で君に渡す。何度もご足労だがまたここに取りに来てくれたまえ。どうだい、悪い話じゃ無かろう?災い転じて福となすってやつだな?はっはっはっは」
圭介は持ち前の豪傑笑いを放って見せた。
美樹は呆れて空いた口が塞がらなかった。
夫はピンハネの片棒をこの弱気で実直そうな貧相な運転手に担がせようとしているのだ。
なるほどこうやって、敵も作れば味方も作って来たわけなのね?
初めて出会った中学生の頃は少しどもりがあって、引っ込み思案で、孝一郎や、秀才の佐賀君はもちろん、ノブオや豆タンクのジンより地味で目立たなかった存在の少年が変われば変わるものである。
彼女は最前から昨夜孝一郎から指示されたことを守りつつ、その後の展開を見守った。
「それじゃあ失礼して表で社長と電話して参ります。」
「ああ、頑張れよ。それから値段は150万まで釣り上げてもいいだろう。それで会社と君で儲けは折半だ。ただし、領収書は要らない。これはあくまで私のポケット・マネーから出すんだ。加賀谷組宛ての領収書なんて出されても迷惑なんだ。それからね、私は電話には出ないからね。お宅の社長に礼なんぞ言ってもらわなくても、君にさえ喜んでもらえれば十分なんだ。
この話はあくまで、君とこの私との間だけの話なんだと了解してくれなきゃ困る。」
「は、はい。わかりました。それでは少々お待ちください。」
小西はそう言って外に出て行った。スマホでボソボソと喋っている声が聞こえる。
『石を預かってくださったお宅のご主人が、それなら百万円で買い取ろうとおっしゃってくださっています。いえ、ご本人は篤意の第三者ということでご挨拶はお控えしたいとのことです。はい、はい…』
小西は圭介に吹き込まれた通りに話を進めているようである。しかし彼自身思いがけぬ幸運とその展開に知らずに興奮しているのだろう。
本人は極力抑えているつもりの声がつい大きくなってドア越しにも漏れ聞こえて来るのであった。
やがて最前とは見違える顔付きの小西が戻って来た。
「おかげさまで上手く100万で話はまとまりました。これもすべて社長の力とアイディアのおかげでございます。
弊社の社長も、お前よくやってくれたと大喜びでした。私も胸を撫で下ろしました。」
と、改めて二人に礼を言い、頭を下げた。
「何はともあれよかった。これで三方丸く収まったな。いやぁ小西君、商売、特に土建屋なんてやっているとな、こんなトラブルはある意味日常茶飯事だと言ってもいいんだ。取引先が最初に言ったことと手のひらを返すなんて当たり前にあることなんだよ。それをいかに収めていくのが腕の見せどころというかなぁ!」
圭介の鼻はまたしても天を仰いでいた。
「何度お礼を言っても言い切れませんが、社長この石はどうされますか?場所を移しましょうか?」
「いやいやウチの会社にだってユニックもブルもユンボだって揃っている。それは心配しなくていい。それより君も疲れたろう。このままホテルに帰って休みなさい。
そうしてそうだな、明後日月曜日の正午にもう一度ここに来てくれるかね?そこで現金で支払う。
君がその後会社に帰って経理にいくら納めるから私の知ったことじゃないけどね」
小西は米搗きバッタのような礼を繰り返すとトラックを軽やかに転がして去って行った。
「さすがに上手いことやるわね!あの人あんなに喜んで…」
美樹がそう言いかけるのを圭介は制して、
「話は後だ。まずは電話が先だ。孝一郎に言われてるんだったな?お前も来なさい」
彼はそう言って仮面妻を居間に連れて来ると早速昨日の名刺を手に高倉に電話を掛けた。内容を美樹にも聞かせるためスピーカーホンにするのを忘れなかった。
「ああ高倉さんですか?昨日の加賀谷です。
苦労しましたが、なんとか段取りをつけることに成功しましたよ。」
「ええっ、本当ですか⁉︎ まさかとは思いましたが…、さすがにやり手の経営者は違いますなぁ!」
スピーカーを通しても、高倉の高揚した口調は伝わって来る。
「で、加賀谷社長、本当にあの龍鱗岩を私にお売りいただけるのですな?ああ夢のようだ。ついに龍鱗岩が私の物になる‼︎」
「それはお約束ですからな。はっきり言って私にはあの価値がまだわからないのだが、貴方は本当に昨日おっしゃった金額でお引き取りになるおつもりなんでしょうな?」
「はい。ご不審なところは重々承知致しております。
実は昨日はあの龍鱗岩を見つけたことで興奮してご説明が足りませんでしたが、実は龍鱗岩はそもそもその存在が希少なだけでなく、その中に貴重元素である無水ケイ素を大量に含んでいるという特性がございます。
なにせ存在自体がごく少ない物ですから、まだその商業利用や工業利用に関しては世界でも十分な研究が成されておりませんが、私は別に学者でも研究者でもありません。
龍鱗岩をこの手にできるということだけで一生の夢が叶ったような心持ちです。
ご苦労をお願いしたようですから、昨日のお約束通り、一千五百万円をお振りこみさせて頂きます。加賀谷組建設様の口座番号を後ほどお伺いさせていただきたいのですが…」
「ああそのことですがね。勝手なお願いですが高倉さん、宛先は加賀谷圭介名義の口座にお願いできないかな?」
「ははぁなるほど。よくわかりました。いや、さすがでございますね?加賀谷社長が同業者じゃなくてホッとしておりますよ。」
野太い二人の男の笑い声が混じり合った。
「それで今後はどうしよう?確かあなた明日まで迫館にいるって言ったな?」
「いやいや、私の方も会社に命じて送金の支度もありますので、少なくとも、銀行が開く月曜日まではこちらにおるつもりでございます。加賀谷社長さえよろしければ、月曜日の午後3時にまたお宅にお伺いいたしたいと存じますがいかがでしょう?」
「うん、3時ね。ちょうどいいや!」
圭介がほくそ笑んだのを美樹は見逃さなかった。小西と高倉との間に何の関係もないとはいえ、二人がかち合えば、お互い気まずかろう。
「じゃあ高倉さん、これは私からも提案だが、そんな貴方にとって、いや社会にとっても貴重な物を東京まで大切に運ぶんだ。
それに関しては私の方で輸送手段、といってもやはり同じようなユニック車だが、それに厳重に積み込んで、お宅の指定する場所までウチの輸送部に命じて間違いなく送らせることでどうだろう?私としてもそれくらいはさせてもらっても罰は当たらないと思うんだが…」
圭介は突然太っ腹なことを言い出した。
「いや、加賀谷社長、そんなことをされてはこちらの立つ瀬がない。」
高倉はそう言って固辞したが、圭介は構わず、
「いいや、そのくらいはさせてくれ。
私の方も東京に貴方のような伝手ができることの方が今後ありがたい。これを何かの縁として、これからもよろしくお付き合いをお願いしたいのだが。」
「ああそれはもったいないお話ですが、確かに東京の私どもにしてみれば北海道はまだまだ宝の宝庫です。今回のように、どんな掘り出し物が眠っているやも知れません。
こちらからもぜひご厚情を賜りたいもので…」
電話越しにもどこまでも高倉は低姿勢だった。
「それでは明後日月曜日の午後3時に間違いなく。」
そう言って圭介は念を押すと電話を切った。
そうしてそのまま子機を充電スタンドに戻す間もなく、短縮番号をプッシュした。
わずかな呼び出し音の後に回線が繋がったのが隣で聴いていた美樹にも聞こえた。
「おお、孝一郎か?圭介だ。いつも世話になっている。ああ、おかげさまですべて上手いこと行った。流れはミッキィから聞いていると思うが、なんと一千五百万で落着だ!われながら恐れ入ったぜ!」
彼は今朝からの経緯を事細かく孝一郎に語った。
その口調には自画自賛が込められていると
美樹は思った。
まあいい。やり方は汚いとしか言えないが、濡れ手に泡とはこのことだ。
加賀谷組の資産に関しては税理士に管理をさせているので彼女の知るところではないが、「アンバサダー」と「ノーマ・ジーン」、それとこれは大した足しにもならないが「朋」の売り上げを併せても、純益で一千五百万を稼ごうと思ったら容易なことではないくらいのことは彼女にでもわかる。
そんな彼女の耳にスピーカーホンから孝一郎の声が飛び込んで来た。
「ケースケ、いいかよく聞け。それはヤバい‼︎」
続く