ミステリースポット紀行 ⑦ 香具山呪い歌 | われは河の子

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奈良県橿原市の天香具山(あめのかぐやま)は古代大和朝廷の持統天皇の都である藤原京の東(太陽の昇る方向)に当たり、畝傍(うねび)山、耳成(みみなし)山と合わせた大和三山の中でも最も神聖な山とされて来ました。

 開闢(かいびゃく)の神である、国常立之神(くにのとこたちのかみ)を祀っています。


 古来多くの歌に詠まれて来ましたが、最も有名な物はやはり日ごとに香具山を仰ぎ見たであろう持統天皇の御製で、万葉集に録られた、

 春過ぎて夏来たるらし 白たへの衣干したり 天香具山 (万葉集巻1-28)でしょう。


 しかしこの歌は小倉百人一首の中に録られた

 春過ぎて夏来にけらし 白たへの衣干すてふ(ちょう)天香具山

 というバージョンの方で記憶している人も多いと思います。


 なぜ二つのバージョンが存在しているのでしょう?

 小倉百人一首を編んだ、平安時代の天才歌人である藤原定家によって改変された可能性が高いですが、そもそも天皇が自ら詠んだ(御製)の歌で、国選歌集に採択されている歌ですから、いかな後世の天才歌人といえども勝手に言葉を変える振る舞いは許されるものではないでしょう。


 謎を解く鍵は変えられた文字に潜んでいるはずです。


 そこで万葉集と百人一首とを比べてみると、変わっている部分は きたるらし→きにけらしの「た」と「る」、そして、干したり→干すてふの「し」「た」と「り」ということになります。

 つまり元から変えられた文字はた、る、し、た、り です。

 これを並べ変えるとた、た、り、し、る、(祟り知る)という意味になります。


 さらに香具山歌は二重暗号になっています。

以前沓冠(くつかむり)の記事で紹介した冒頭(冠)と末尾(沓)を拾う技法ですね。


この場合は冠になります。


 はるすぎて

 なつきたるらし

 しろたへの

 ころもほしたり

 あめのかぐやま


 この冒頭の一文字を下から上に拾うと

 あ、こ、し、な、は となります。

 これは吾子死なば(我が子が死んだならば)と読み解くことができます。

 持統天皇にとっての我が子とは、これも前の墓デートの時にご紹介した皇太子草壁皇子ということになります。


 つまり草壁皇子が死んだならば祟りを知るであろうというとてつもない呪詛の歌ということになります。

もちろん持統天皇が自分でこんな不吉な歌を詠むとはいえ思えません。

 古墳デートにも書きましたが彼女は息子である草壁皇子に夫の天武天皇の持っていた皇位を継がせたいがために、才能が豊かで人望があった大津皇子に謀反の疑いがあったとして自刃させ、自分が産んだ草壁を皇位に付けようとしますが、その草壁も若死にしてしまったので、草壁の子で自分の孫の軽皇子(後の文武天皇)に皇位を継がせたかったが、皇子がまだ7歳という幼年であったため祖母である自らが皇位につくという荒技をやった女傑で、当然大津皇子派の舎人などからは重い怨みを買っていたと思われます。

 実際に草壁皇子は天皇になれずに死んでしまい、呪いが成就したと言えるかも知れません。


 ですから、大津派の宮廷歌人の誰かから天皇に対して「こんな歌ができましたから、ぜひ天皇のお名前で発表なさってはいかがですか?」とお追唱を言われると、一見明るく雄大な歌なので喜んで採用したのではないか?というのです。


 それをより技巧を追求した平安時代の天才歌人藤原定家によって、歌の呪いを解くために敢えて改変されたのではないのかという説があるのです


 さらには、草壁皇子の死に関しては、万葉世界において最高の天才歌人と讃えられる柿本人麻呂が挽歌(死を悼む歌)を長歌一首、反歌二首を残しています。

 

 この一の返歌は

 久方の天見るごとく仰ぎ見し

 皇子の御門の荒れまく惜しも です。


 ひさかたのあめみるごとくあおぎみし

 みこのみかどのあれまくおしも


 大空を仰ぎ見るようにしていた皇子の宮殿が無人になって荒れているのを見るのは惜しいことだ。

 という意味になります(久方のは天にかかる枕詞)が、荒れまくの「まく」は推量の助動詞「ま」に名詞形を作る助動詞「く」が接続していますが、「まく」は「曲く」でもあり、ここで文章を曲げるキーワードにもなっていると考えると、

 ひさかたの

 あめみるごとく

 あおぎみし

 みこのみかどの

 あれまくお↑かしとなり、荒れているのが笑えるほどいい気味だという意味になります。(曲くの次のおの字から読み方を曲げて上にお、か、しと読む。)


 柿本人麻呂はその名声に比べて人物像が謎に包まれた人物で、梅原猛は「水底の歌」で失脚して刑死した人物であると推定し、井沢元彦は「猿丸幻視行」の中で猿丸大夫との関連について触れています。

 さらに古代史研究家の小林惠子(やすこ)氏 

は「本当は恐ろしい万葉集」の中で、『人麻呂はアンチ新羅、ひいては本質的には反天武朝に凝り固まった人だから草壁皇子の挽歌を歌うはずがないのである。』と述べています。

 私は小林氏の論説の是非に関しての知見は持ち合わせませんが、

 天智、天武の争いに端を発した壬申の乱から、持統王朝に至るまでの血生臭い政治的背景をバックボーンにした万葉集をただ単に素朴で雄渾な歌風と捉えることは見せかけに騙されることではないかと思います。


 長々とお付き合いいただきありがとうございました😊