「どないしたんや、今日は調子ええんか?」
「ああ、まあ酒でも飲もうや」
「なんや、何かあったんか?」
「ああ、いろいろとな」
「ふうん、ま、飲むなとは言われんしな」
彼はそう言いながら、小さな食器棚からグラスを二つ取り出した。影を帯びた液体が満たされ
、私は何も言わずにそれを呷った。
「一人で部屋におると怖くてな」
ウイスキーはもう半分くらいになっていた。
「なんで?」
「なんでかわからん。けど一人でおるとな、わーっと叫びたくなるほど怖くなるんだ」
「お前疲れとって神経質になっとるんや。考えすぎやで。だいたいお前がそう落ち込むのは似合わんわ」
早瀬はそう言ったが、私のことを心配しているのは確かなようだった。
「なんやストレス溜まっとるんか、暑さボケか?どっちにせよゆっくり休んで、三日ほどどっか遊びに行ったらええんちゃう?気晴らしに。そしたらすっきりするし、やっぱりお前、気分転換が必要やで」
「そうかーー」
私は何も言わずにウイスキーを飲んだ。
私の持参したボトルは九時前に空になり、彼が近くの酒屋の自販機からよく冷えたホワイトをもう一本買って来てからも私のピッチは落ちなかった。
早瀬はすっかりいい色になっていたが、彼のピッチも変わらなかった。私たちは海へ行きたいなとか、温泉に行きたいなとか、他愛のない話を続けていた。
遠くで電話が鳴った。やがて階段を途中まで昇る足音と、若い男の声が聞こえた。早瀬を呼んでいた。
電話から戻った彼の顔からは酒の勢いは消えていた。彼は私を見据えたまま腰を下ろすと、グラスの残りを一息で空けた。
「安田さんからやった。お前の行方を探しとった。俺んところにおる言うたら安心しとった」
「そうか」
「お前ーー」
「知ってる」
はあ、と彼は大きなため息をついた。
「なんで?」
「わからん」
「おうたんか?」
「いや」
彼ははそれを聞くと気ぜわしげにウイスキーを注いだ。グラスがカチカチと鳴った。
「会わんのか?」
「会うのも怖い。それに、会ってもなにも意味がないような気がする。俺にはもう何もできない」
「そうか、お前にしかできんことあるような気もするけどな」
早瀬は空を見つめていた。彼が何を考えているのか私は知らなかったし、知りたくもなかった。ただ私はその時にはもう何も考えてはいなかった。
「ショックやなぁ」
彼は立ち上がり、窓の網戸を開けた。私はその窓を見たが外には何も見えなかった。
「悩みは尽きんの」
私は答えなかった。
「泊まっていくんやろ」
しばらくしてから彼が言った。
「いや、そろそろ帰る」
彼は驚いたように、
「なんで、おれや。下宿に一人でおってもしゃあないやろ?泊まってったらええねん」
「いや帰るよ。お前酔うといびきがうるさいし。ゆっくりと寝たいんだ」
私は立ち上がった。
「そうか。けど眠れるんか?」
「わからん」
彼は玄関で飲み残しのウイスキーを私に持たせた。それがあった方がいいやろと言った。
「じゃ」
「ああ……」
それから彼は、落ち着いたら見舞ったれやと言った。
就職活動は低迷を続けていた。
日いちにちと手持ちのカードは減ってゆき、だからといって、それを補充する積極性も同時に減っていた。
それでもいくつかの企業は私を買い被り、次の面接の約束をしたりもしていたが、弁舌さわやかに応対を終えた帰路には、決まって頭痛と自己嫌悪に見舞われた。
適性検査と称するものでは、検査項目に、『時々わけもなく不安になる』とか、『誰かが私を陥れようとしている』などという問いがあり、実家ここしばらくの精神状態はそれを否定してはいないのだが、私はきちんと(NO)をマークした。
そして、いったいこれらの項目に、正直に(YES)と答える者がいるかと思ったりした。
8月もいつしか下旬に達し、蝉たちの狂気のエネルギーは衰えてはいないようであったが、道のそこここに、乾いた亡骸が目立つようになった。
成虫となってからは一週間程度しか生きられない蝉のことであるから、七月中からあれだけ大量に発生しているなら、同じく割合でまた死んでいったはずなのであるが、不思議とそれまでは目につかなかった気がする。
今になって、電柱の下や、プラタナスの街路樹の根元などにポタポタと落ちていて、それがまたとてもいやらしかった。