蝉鳴り ⑦ | われは河の子

われは河の子

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 その日も私は市内の酒造会社の面接を終えて、たっぷりと熱を含んだアスファルトを踏んで、下宿の門をくぐろうとしていた。と、いきなりすぐ目の上で、黒い中型の蝉がけたたましく鳴き出した。そいつは呆然と立つ私を尻目にひとしきり叫び続けていたが、やがてケラケラという笑い声に変わったかと思うと、その声もつきぬ間にポタリと落ちて、そのまま死骸になってしまった。

 私は呆然としたまま、今はただの物体と化したそいつを見つめていた。その笑い声はまだ私の耳の中にこだましているようだった。私はなぜか急に怒りを覚え、その黒い生命の抜け殻を踏みにじった。それは今まで宿っていた生命などまったく記憶していないかのように、カシャカシャと音を立てて崩れてしまった。

 私はなおも踵に力を入れ続けていたが、その時、先程と同じ声が頭の上から降って来た。

 思わず首を上げると、先の蝉がとまっていた門柱の上からのぞいている赤松の幹で、同じような黒い蝉がじっと私を見つめながら鳴いているのであった。

 そいつはさっきからの一部始終を見ていたのではないだろうか。そう思うと、私の胸にもやもやとした不快感がわいてきた。

 そいつの声は先程と同じように、ひと声長く尾を引いたかと思うと、ケラケラという笑い声に変わった。私は思わず、胸の底から不快が奔流になってこみ上げて来るのを感じた。

 蝉はケケケケ……という声を残して羽ばたいていったが、私は門の傍を汚してしまった。


 眠れぬ夜が続いた。床について一度は眠りに落ちるのだが、二時間もしないうちに悪夢に襲われてはね起きるのが常だった。寝汗でびっしょりと濡れたシャツをとりかえても、再び横になってなることはできなかった。今まで見ていた夢が、次々と場面を追って目の前に現れるようで、私はヘッドホンでロックをガンガン聴きながら、頭が痺れるまで酒をあおった。

 私には、酔ってトイレで苦しい思いをするほうがまだしも楽だった。

 胃や喉の痛みだけが、恐怖をやわらげる薬であり、東の空のもやのような赤みが透明な光彩に変わって、小鳥の声が確実に朝を知らせるようになってから、ようやく私はウトウトとすることができるのだった。