市販の睡眠薬を大量に嚥んだらしく、友人が偶然発見した時には、すでに意識が混濁していたらしい。
救急車で病院に担ぎ込まれ、手当を受けた結果なんとか一命を取り留めたという事であった。
私はそのことを下宿を訪ねて来た由美子の叔父という男から聞いた。関西に叔父がいるという話は聞いたことがあったが、しかしどうもその男は興信所の人間か探偵のように感じられた。
「それで自殺を図った動機は何なのですか?」
「それがやな、いろいろ本人に聞いてもまだボーッとしていて理路整然とした話ができひんのですわ」
「はぁ」
「いや、それであなたやったら何かご存知じゃないかと思いまして」
「私?私には心当たりなんかはありません」
「そうですか。実は遺書のようなものもありませんしな、助かったとはいえ途方に暮れとるんですわ。
それでですね、お友達の言うには、この数週間ばかり悩み事があるようやったということなんですわ。それでどうも近ごろあなたと、その、うまくいってへんかったと、まあこないに言うとるんでねぇ」
私はぼんやりと、そんなことをこの男の耳に吹聴した人物のことを考えていた。誰だろうか?その人物は私には一言も連絡しては来なかった。
とはいえ私も由美子のプライバシーの全てを知っているわけではない。学部も学年も違う。もちろん共通の知り合いも何人かはいるが、実際由美子が一緒に旅行に行くと言っていた友だちにも心当たりがなかった。
「どないですか?」
「はあ、ちょっと気まずくはなっていたんですが……」
「話してもらえます?」
彼は私の正面に向き直って尋ねた。
「いえ、こうして暑い中寝ていたように、私も暑気あたりか身体を壊しまして。その頃からイライラして、ついきつい事を言ってしまったようです」
「ほう、どんなことですかな」
「蝉です」
「せみぃ?」
「蝉があんまりうるさいので……どうも少しノイローゼ気味なもんですから」
「ほんまですか、それ?」
「ええ」
彼は不思議そうな顔をしていたが、
「まぁいいでしょう。結果的に助かったわけやし、いろいろ詮議したぁないですしな。中にはあれは狂言くさいいう人まであるようですし……
ところであなた、彼女が妊娠していたことはご存知なかったでしょうな?」
私は愕然とした。由美子が妊娠とはーー
「そう、手当した医者の話ですがね。三ヶ月ということですわ」
「そ、そんな……」
私は絶句するしかなかった。
「ほぉ、知らんかったのですか?」
「しかし、まさか……」
「あんたが父親やってことはないんですかな?」
彼は皮肉混じりに笑って言ったが、その眼は笑っていなかった。
「そうですか。ま、これはいずれ答えが出るでしょうし、あんたにとっては不愉快な話になるやも知れませんな?」
彼は意味深な表情をして見せた。まるで私を憐れむようであった。
「見舞いに行かはりますか?」
私にはもう何も聞こえなかった。
男がもう一度尋ねた。私は黙って首を振った。
「そうですか、病院は一応洛北病院なんですが……そうですか。それじゃお邪魔様でした。お身体お大事に」
そう言って男は帰っていった。
どの位の間、私は布団の上に座って、ぼんやりと扇風機の回るのを眺めていたのだろう。頭の中には由美子の屈託のない笑顔があり、それを振り払うと、蝉の声が渦を巻いて襲いかかって来る。それの繰り返しだった。
ふと六時を回っているのに気がつくと、私はノロノロと起き上がり、Gパンをはいてサンダルを突っ掛けて外に出た。部屋には鍵はかけなかった。
早瀬はすっかり暗くなった部屋でラジオのナイターを聴いていた。近くを電車の通る音が響いて、ラジオは一瞬沈黙した。
私がぶら下げていたホワイトの瓶を戸口から転がすと、湿った空気が邪魔をしてか彼まで届かなかずに薄い闇に溶けた。
彼は横になったまま、長い紐を器用に足で引いて灯りをつけた。
ウイスキーの瓶は何も知らぬかのようにそこにあったが、その中で不透明なゆらめきが続いていた。