日曜日、さすがに十時を回るとシャツも布団も汗だらけで寝てはいられない。のそのそと起き出して、ぼんやりコーヒーを飲んでいるところに早瀬が押しかけて来た。
「おお、お前由美子と別れたんやてなぁ」
彼はそう言うなり、どっかと腰を下ろして勝手にインスタントのコーヒーを入れはじめた。
「えらい落ち込んでるやないか」
「落ち込んでなんていねぇよ」
が、そう言った私の声は、自分でもびっくりするほど弱々しかった。
「なーにが。まったく落ち込んどろうが」
「そんなことより何だ、その話がもう広まっているのか、ニュースソースはどこだ?俺はここ数日誰にも会ってないぞ」
早瀬はズズズとコーヒーをすすりながら、
「ワシは知らん。山村からゆうべ聞いたんや。お前が彼女と別れて暗くなっとるって。それで様子見に来たんやけど……あ、フレッシュないか?」「ねえよ」
[怒るなよ」
「怒っちゃいねえよ。けどこのごろ何か調子悪くてなあ、いいかげん参っとるわ」
「お前北国育ちやしな。暑さで狂うとるんやろ」
「おお、狂っとる狂っとる」
「まぁ自分で狂っとることわかってるうちはシャンとしとる証拠や」
彼はそれからしばらく取り止めのない話題を続けた。別れた理由などという野暮なことは聞かなかった。
私は彼のくだらない話にもっぱら相槌を打つだけだったが、ここしばらく続いていた嫌な気持ちは起こらなかった。気温はすでに三十度を超えているはずであったが、私はさしてつらいとは思わなかった。
「本屋行こ」
「今日は生協休みだぞ」
「白梅町まで行こうな。俺そこから帰るし」
「しんどいわ。この暑いのに」
「あかんあかん、そんなんやから落ち込むんや」
彼はそうして強引に私を連れ出した。私はされるがままになっているのが楽しかった。
北野白梅町の書店で、何を買うともなしに時間を潰した私たちはそれから遅めの朝食を喫茶店で取った。
「これからどないするんや?」
「ああ、天神さん抜けて帰る」
私がそう言うと、早瀬は脂ぎった笑いを浮かべて、
「ほんじゃまたな。そのうち酒持ってくわ。まあ元気出せや」
そうして私の背中を痛いほど叩いて、西大路をゆっくりと下って行った。
私はため息をつくと、北野天満宮の大鳥居を目指して歩を進めた。
平野神社から紙屋川を渡って北野天満宮の裏門に至り、境内をずーっと貫いて、石灯籠の参道を狛犬の前までぶらぶらと歩いて、白梅町の書店で本を買ってから西大路を帰路に取る。あるいはそれを逆方向に歩くコースは、私の最も好きな、そして最もポピュラーな散歩道であった。
早春の北野の梅に始まり、平野の桜、紙屋川の緑、御土居の紅葉といった折々の風情が、下宿から歩いて程近いこの散策で楽しめるうえに、毎月二十五日の天神市を冷やかして歩くにも、これはうってつけの道のりだった。
その日早瀬と別れて、私は北野天満宮から平野神社へとたどる道筋をぶらぶらと歩いた。天満宮の裏門のあたり、楠の老木が天を突いて聳えるそのあたりでは、木漏れ日に溶け込むように、あの蝉の声が暑さを沸きたてていた。
ちらりと左大文字の赤茶けた筆跡を眺めて左に折れると、真正面に平野神社の赤い鳥居が見えた。
その鳥居が近づくにつれ、私の鼓動は火を吹くように高まっていった。だが私はそれに吸い込まれるように歩みを重ねて行った。
鳥居の先には平野の夜桜で有名な桜の林がある。 そしてこの時期、その百数十本の桜の樹々は、蝉たちによって占領されていることを知りつつ、まるで怖いもの見たさのようにそれを求めてゆく自分を、私はとっくに止めることができなくなっていた。
そこに足を踏み入れたら、おそらくただではすむまいとはわかっていた。が、もしかしたらそこは天国のようなところであるような気も、心のどこかにあったに違いない。
そう、少なくとも、この頃毎日のように私を責める蝉の声の不快さの謎と、なぜ由美子とこんなことになったのか、その答えだけはその林の中にあると思えるのであった。
紙屋川に架かる小さな橋を渡った辺りから、蝉の大群が林を包むようにして鳴いているのが聞き取れた。
ずっしりと垂れんばかりに葉をつけた桜の樹々は、まるでそのトンネルを通る者を封じ込めるようで、その果てしれぬ緑の闇のどこからか、重なり合い、増幅し合う蝉の声が、一層そこからの世界を現存めいたものに思わせた。
乾いた土を踏んで、その緑の空間に溶けはじめた私を、四方八方から蝉鳴りが包んだ。震えるがごとく、押し潰すがごとく。
GーーーGーーーE E E……N……MーーーN N N……Mーーー……Gーーー E E E N N……GーーーN N N
それらの音波は互いの波の間を埋め尽くし、
「わーーーん」
という空気の大きなうねりとなって、その中心に立つ私の耳には何も聞こえなくなった。
肌がピリピリと痛み、鼓膜に重い圧力を感じた。だがその時には、わたしは襲い来るめまいに耐えきれず、ゆっくりと膝から地面に落ちていた。
私を除くすべての世界がぐるぐると回り続け、私は一人どこまでも堕ちていった。
それから二三日、私は身体の調子を悪くして、蒸し暑い部屋で寝ていた。何をするのも億劫で、頭痛はやまず、予定していた会社訪問を全てキャンセルして、それがかえってせいせいするような投げやりな気分だった。
網戸を通して部屋に入ってくるのは、隣の家の幼い子どもが泣き叫ぶ声と、それを叱る母親のヒステリックな声。そしてあの忌々しい蝉の合唱だった。それらがねっとりと暑い空気と混ざり合って、私の汗腺という汗腺、毛穴という毛穴を刺激しているようだった。
そんなある日、由美子が自殺を図った。
つづく