大原は若い女性で埋まったようだった。
ただでさえ暑い八月のこの日に、むっとするほど人の匂いで満ちていた。どれもこれも似たような女性観光客のグループばかりだ。彼女らの多くは、今月発売されたばかりの同じ雑誌を小脇に、焼きものの店や、占いの店先にさんざめいていた。彼女らはこれらの店と、あとはせいぜい三千院と寂光院にゾロゾロと足を運び、隠れ里大原の情緒を満喫したつもりで帰途につくのであろう。
私たちは人いきれの澱んだ三千院を素通りして宝泉院へと足を向けた。
さすがにここまでやって来る観光客は少なかった。私たちは庭に面した廊下に座って、出されたお茶とお菓子のおかげで、ようやくゆったりと一時の静けさを感じていた。とはいえ、竹林を透かして差して来る陽差しは強く、なによりも空気の暑さは、こうして涼しげな庭と向き合っている自分の肌に浮かんだ玉の汗がそれを物語っていた。
私たちの頭上には、伏見城の遺構、血天井がひっそりと別の世界に息づいていて、普段なら何となくひんやりと、怪しいささやきを投げかけているのだが、今日に限っては、ただただむさくるしい代物であった。わたしは目の前の青竹の林になんとか涼を求めようとしていた。
「私ねぇ」
由美子が務めて明るい声で言った。
「来週旅行して来るわ」
「どこ行くんだ?」
「信州、清里。友だちと三泊ほど。無理やり誘われちゃって…」
「へぇ羨ましいね。けど今時分はどこへ行っても満杯だぞ」
「それがね、ちょうど友だちのお父さんのコネで、コテージやテニスコートも借りられるんだって。すごいじゃない。お土産買って来るから、京都で留守番していてね」
「まぁこっちはね、京都と大阪から出られそうにないからな。家には帰らないのか?」
「わからない。夏休みの初めにちょっと帰ったしね。まずはこっちに一度戻ってから考えるわ」
そう言って彼女は笑った。
彼女は神奈川県の医者のひとり娘で、いいとこのお嬢さん育ちの3回生。なぜ彼女が私と気が合うのかわからなかったが、少なくともこの二年間、彼女の奔放で開放的な性格が私にとって心地よかった。
しかし、いつもは健康そうに見える彼女の頬に少し翳りのようなものが見えた。
「それよりやつれたんじゃないか?夏バテするなよ」
「あなたほどじゃないわ。ちゃんと食べているの?」
「腹だけは減るし、酒を切らすこともない」
「飲み過ぎに気をつけてね」
暑さの中ですべてのものが正体を失っているようだったが、私にとって彼女だけが生き生きとして見えた。
ここまで来る時には気にもならなかったが、帰りの道は蝉鳴りで満ちていた。
ジージーと間断なく聞こえるアブラゼミの合唱に混じって、ひときわ高く、唱えるように響くミンミン様の声は私の神経を逆撫でた。
私が思わず無口になったので、由美子は振り返って、
「どうしたの、すごい汗。それに顔色も何だか悪いみたい」
「いや、大したことない。軽い日射病かもしれない。ああ、大丈夫だ。どっかその辺で休んで氷でも食べよう」
「本当に大丈夫なの?ともかくどこか休めるところを探しましょう」
由美子はそう言って私の腕を取った。その途端、細い道を取り囲む木立ちから"わーーん"という感じで、なにかの塊のように蝉の声が降ってきた。私は脳を鈍く殴られたようなショックを感じた。冷たい汗がどっと流れ、身体中が総毛立つのをまるで他人事のように、意識のどこか遠くで感じていた。
由美子は何も気にかからない様子で、相変わらず私の顔色をうかがっていた。
その時に私は、蝉鳴りに包まれた彼女にふいに嘘を感じた。どうしてそう思ったのかはわからない。しかし、私の汗ばんだ腕を優しく取っている彼女が、汚れていると知った。
空は日光が飽和したかのように白く輝き、私のまわりでは青と緑がぐるぐると混ざり合い、蝉の声は山々にこだましていつまでも消えなかった。
その夜私は一人で激しく酔った。
何日か経った夕方、母屋の大家から電話を告げられた。激しい夕立の中を母屋まで走って受話器を取ったが、それは期待していた企業からのものではなく、由美子の友人、そして私の友人でもある安田梨恵からのものであった。
「ユミと別れたんやって?」
「ええ、そんな話になってんのか?俺は何も知らんぞ」
「そうなん……けど、結果的には良かったのかもしれへん」
「どういう意味?」
「ユミね、このごろどうも変だって、仲間内で何となく噂になってたんよ。けどあんたがいま一番大切な時やし、はっきりしたことは何もわからへんし、皆ン何でもう少し様子みよって言うてたんやけど……まさかこんなに早くどうかなるとは思わんかったわ」
「ふーん、けどこのごろおかしいのは俺も同じなんだ」
「いろいろ大変やろうけど頑張ってな」
彼女はそして近々会いたいと言った。
私は今は誰にも会いたくないと答えた。
「ふん、そうかもしれへんね。じゃ、何かあったら連絡して」
「ああ、ありがと」
電話を切って離れてに戻ろうとすると
この家の小学生の子どもが私の様子を伺っているのに気づいた。
「どうした?」
「兄ちゃん、具合悪いんか?」
「いいや、何も悪くないで。元気にみえんか?」
「うん、なんかしんどそうや」
「ああそうか。あのな、蝉がうるさいやろ。あれ聞くと頭痛たなるねん」
「今もーー?」
「うん」
子どもは白い歯を見せて笑った。
「けど、外は雨やん。蝉なんて鳴いてへんで」
なるほど、さっきから聞こえているのは雨が激しく瓦を打つ音のようだが、その中に混じって、セミの声は確かに私の耳に聞こえるのだった。
「ぼくなぁ、夏休み中にもう六匹も取ったんやで」
そう言われて我に帰った。
「ふーん、そんでその蝉どないした?」
「フフフ……あのなぁ、しばらく虫籠の中でジージー鳴いたったけど、そのうちパタパタとみんな死んでしもうた」
「そら残念やったな?」
「うん。けど今年はなんぼでも取れるしええんや。兄ちゃんセミ嫌いなんか?」
「うーん、どうだかようわからん」
変なの。と彼は言ってクスクス笑った。
つづく