一つの学校には、教師の学校と生徒の学校という2つの学校が同時に存在する 教育観 その2
学校・校舎は一つだが 教師が見ている学校と 生徒が見ている学校という 2つの学校が同時に存在している。言い換えるなら、 学校とは、教師の世界と生徒の世界、 教師の学校社会と生徒の学校社会が この2つ同時にあり、 学校運営、学校生活がされている。この2つの学校には、それぞれ 異なるルールが存在し、 他方へは、まったく影響を及ぼさない。つまり、生徒の学校のルールと 教師の学校のルールは、 ことなる原則でそれぞれ動いている。そして、教師と生徒も お互いに、相手の学校が どのようなものかは すべてを知ることはできない。この教師の学校と生徒の学校という 2つの世界は、別々に存在し その間には小部屋と、壁がある。基本的に、2つの学校を、 教師も生徒も行き来はできないが 間にある小部屋(教室)には、 どちらも入ることができるが 他方の学校へは行けない。2つの学校を隔てる壁には ドアと窓ある。このドアが開くのは、 イジメ、喧嘩などが起きた時である。イジメられた被害者の生徒は、 生徒の学校から、このドアを通って 教師の学校へ行くこととなり 世間に知れ渡る。この2つの学校を隔てる壁には、 大きな窓があるが 透明ガラスではなく すり硝子である。ゆえに、お互いに、なにかぼんやりと 相手の学校を見ることができる。いじめなら、教師は、なんとなく すりガラスを透して 教師の学校から生徒の学校で 起こっていることが、ぼんやりと いじめを認知できると いうことになる。もちろん、生徒の学校を気にしている 教師だけが、すりガラスから見える いじめが分かるのだ。生徒に関心がない、ないしは 面倒を避けている教師は すりガラス窓に寄ることはない。いったん、教師の学校へ行った生徒は もう生徒の学校へは戻れない。同じように、教師が、生徒の学校へ ドアを開けて入っていく時は、 その教師は、 教師の学校へは戻れない。 ゆえに、教師も生徒も、 お互いの学校を訪問することは ほとんど起こらない。保護者やマスコミが いくらそとから観察しても 1つの学校としか見えず 2つの学校の存在を 知ることはできない。教師も生徒も、自分の学校だけを 知っている。小部屋である教室で行われる授業は お互いに、暗黙の了解で 自制して、表面的に 接することになる。クラブも小部屋として行われる。小部屋内で起こるトラブルは、 小部屋内の関係者で処理し、 出来ない時は、教師も生徒も 各々の学校へ持ち帰り 改めて、小部屋に集合して 落としどころを見つける。落としどころが破たんすると、 世間に知れ渡り、問題化する。保護者、マスコミは 小部屋を学校だと思い 報道することになる。ひとつの学校には、 教師の学校と生徒の学校という 2つが存在している。この現実を意識しておかないと 学校教育を理解することは難しい。そして、あらゆる学校の 教師と生徒の学校の特質は 千差万別となっている。現場の学校教育を理解するのを 一般化するのは とても難しいものとなる。学校は、その学校の当事者でしか 分からない。そして、教師と生徒の学校の すべてを理解するのは 不可能なのだ。教師は生徒の学校を、 生徒は教師の学校を すべてを理解するのには 限界があるからだ。教師と生徒が、学校で 同じ学校生活をしているというのは 幻想なのだから。