関西単身赴任記その14 御所のまわり  | 一陽来復

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散歩、ごはん、プラモが至福のひととき

こうしてブログを書くようになってつくづく思うのは、もっと写真をとっておくべきだったということだ。

目に焼き付ければいいんだ、なんて思っていた。たしかにそうだが、後悔している。

写真は撮りっぱなしで、あとから見ると、どこで撮ったのか思い出せないものもある。

やばい。ちゃんと整理しなければ。

ここのところブログを書くために写真を見直している。

先週書いたブログに使うべきだった~というのが今頃でてきた。

それを載せておこうとおもう。

備忘録を兼ねております。ブログがさらにうす~くなりますがどうかご容赦のほど。

 

この日は9月中旬(2018年)いつものように出町柳を起点にぶらぶらと歩きました。

桝形商店街を突き抜けると寺町通りに出る。

北の方角にむかって寺町通りをすすむ。

 

曲直瀬道三、施薬院全ゆかりのお寺だ

 

さらに寺町通りを北上すると  阿弥陀寺

本能寺の変の折、信長親子のなきがらが発見されなかったといわれるが、密かに埋葬されていたのであろうか。

このあたりの推理は安部龍太郎氏の「信長燃ゆ」が興味深い。

 

そこから西に向かうと相国寺の大伽藍が見える。

金閣、銀閣の造りに似ているのが、素人目にも一目だ。

相国寺からさらに北に向かうと応仁の乱勃発の地、御霊神社だ。

 

烏丸通りを南下すると同志社をみながら今出川通りにでる。ワンブロック西に歩くと室町通り

花の御所、室町幕府址の石碑

 

今出川御門から御所内へ

御所は昔は予約制であったのに今は気軽に拝観ができる。うれしいことだ。

 

寺町通りを歩いてみて秀吉の治世に大掛かりな町の整備が行われたことに気がついた。

京都は平安京の昔の姿をとどめていると漠然とおもっていたが大きな誤解であった。(恥ずかしい)

応仁~戦国期にとことん荒廃した京都を圧倒的な経済力で立て直したのであろう。

京都・大阪で太閤さんと言われて親しまれた理由が街歩きでわかった。