得能良介 | 墓守たちが夢のあと

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得能良介

 

得能家の墓所

 

 紙幣などの印刷を担う初代印刷局長、初代大蔵技監などを歴任した得能良介は、文政8年(1825)に薩摩藩士の家に生まれる。
 17歳で出仕すると島津斉彬・久光に近侍し国事に奔走。明治3年(1870)に大久保利通の推挙で大蔵大丞兼民部大丞に任じられる。
 明治4年(1870)、大蔵省が民部省を合併したことにともなう異動で出納頭(主計局長)となるが、翌年、紙幣頭(印刷局長)渋沢栄一と意見が対立し口論の末殴りかかろうとしたため、罷免されて司法省へ移る。
 明治7年(1874)、渋沢に続き芳川顕正が務めていた紙幣頭として大蔵省に復帰するると、制度改革により明治10年(1877)に紙幣局長、次いで初代の印刷局長へ就任する。
 なお、因縁のあった渋沢栄一とは和解し、第一国立銀行頭取就任も推挙している。
 近代的な紙幣の印刷工場建設に尽力し、西郷隆盛の肖像画で知られるイタリア人版画家のエドアルド・キヨッソーネらを招聘、明治10年には国産初となる国立銀行券1円紙幣の印刷開始にこぎつける。
 その功績によって明治16年(1883)に印刷局長兼務のまま初代大蔵技監に就任しているが、同年に職務中に倒れて死去、満78歳。
 青山霊園に葬られるが、その墓石はキヨッソーネが自らデザインによるものである。

青山霊園 1種イ7号12側