伯爵 芳川寛治 | 墓守たちが夢のあと

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芳川寛治

 

芳川家墓所

 

伯爵家の墓

 

 明治大正期に文部大臣や枢密院副議長を歴任した伯爵・芳川顕正が大正9年(1920)に亡くなり、伯爵を襲爵したのが娘婿として芳川家に入った芳川寛治である。
 寛治は明治15年(1882)に大蔵大臣、外務大臣等を歴任した曾禰荒助子爵の次男として生まれ、三井物産社員であった明治42年(1909)に芳川顕正の四女鎌子と結婚し娘婿となる。
 しかし、寛治は身持ちが悪く妾邸に頻在し夫婦関係が破綻。思い悩んだ鎌子はお抱え運転手と深い仲になり、駆け落ちのうえ千葉駅近くで列車に飛び込む心中未遂事件を起こしている。幸い二人は一命をとりとめたが、後に運転手が一人で自殺し、この事件は「千葉心中」として小説の題材となるなど大スキャンダルとなっていく。顕正は騒動の責任をとって枢密院副議長を辞任。鎌子は退院後、亡くなった運転手の後任の運転手と再び恋仲となり家を飛び出し勘当となっている。なお、勘当後も顕正は激怒しつつも世間の厳しい風にさらされ生活もままならない娘を見かねて仕送りしていたが、顕正が亡くなると打ち切られたという。
 一方で騒動の原因を作った寛治は、世間体もあって芳川家から追い出されることもなく、顕正が亡くなると伯爵を襲爵している。
 しかし、本来であれば義父の功績により貴族院議員にでもなれたのであろうが、スキャンダルによりその道は断たれ実業家としての活動に専念することとなる。
 台湾鉱業、磐城鉱業、足利紡績の社長などを歴任、さらに池上電気鉄道社長(大正10年)、満州繊維工業社長(昭和16年)、藤田組社長(昭和18年)に就任するなど活躍し、昭和31年(1956)に亡くなっている。家督は娘婿の芳川三光(三室戸敬光三男)が相続している。
 なお、青山霊園の芳川家の墓所には芳川顕正と夫人の墓、そして伯爵芳川家の墓の三基があるが墓誌が無いため誰が葬られているか確認できなかった。しかし、寛治は当主となっているので伯爵家の墓に葬られていると思われる。


青山霊園 1種イ21号9側