青山学院関係者墓地
墓誌
東村山市の小平霊園に、近年、駅伝の強豪として知られる青山学院大学を始め幼稚園から大学院までを運営する学校法人青山学院の関係者墓地がある。青山学院だからと言って青山霊園にある訳ではない。
青山学院は明治7年(1874)に東京市麻布新堀町に設立された女子小学校と、明治11年(1878)に京橋区築地1丁目に設立された耕教学舎、さらに明治12年(1879)に横浜・山手地区に設立された美會神学校の3校が母体である。
3校とも米国メソジスト監督教会から派遣された宣教師によって設立されていて、現在の青山学院もキリスト教プロテスタント・メソジスト派のミッションスクールである。
その青山学院関係者墓地の中から、著名な人物を何人か紹介させていただく。
万代順四郎は青山学院理事長、校友会会長などを務めた人物であるが、三井銀行元会長、帝国銀行元頭取・会長を歴任した銀行家としての肩書の方が有名である。
明治16年(1883)岡山の農家で生まれた万代は、明治40年(1907)に苦学の末、青山学院高等科(青山学院大学)を卒業し三井銀行に入社。
財閥系の三井銀行において東京大学や慶應義塾出身でもない万代は決してエリートではなかったが、手堅い仕事ぶりが常務取締役の池田成彬に評価され名古屋支店長、大阪支店長と出世街道を歩むようになる。
昭和2年(1927)に発生した「昭和金融恐慌」の原因は三井銀行の強引な資金回収によるものとされ、その後の「世界恐慌」ではドル買い占めに動いたことにより三井財閥は世間から批判を浴びている。
そして昭和7年(1932)に総帥の團琢磨が暗殺されるという悲劇が起き、池田成彬が財閥の中核である「三井合名会社」の筆頭理事に就任して実質的な総帥となると、万代は池田の後任として三井銀行の常務に就任している。
昭和12年(1937)に池田が三井を去り日本銀行総裁に就任したのにともない、万代は三井銀行の会長に就任している。
昭和18年(1943)に三井銀行と第一銀行が合併して帝国銀行が創設されると初代頭取となり2年後に会長に就任、また全国銀行協会連合会会長も務めている。
戦後は公職追放を受けて一時財界を引退していたが、昭和28年(1953)に東京通信工業(現ソニー)の会長として財界へ復帰している。
東京通信工業は井深大と盛田昭夫が昭和21年(1946)に創業し、初代社長には井深の義父で元文部大臣の前田多門が就任している。
今でこそソニーは世界的企業に成長しているが、当時はいわゆるベンチャー企業の一つであり、前田から資金繰りなどの相談を受けていた万代が直接乗り出したようだ。代表取締役社長は井深であったが、政財界に顔の利く万代が会長としていることの影響力は大きかったのであろう。
また、苦学生であった万代は、母校青山学院の支援も行っている。昭和14年(1939)から4年間、そして昭和20年(1945)から2年間理事長を務めているほか、個人資産のほとんどを寄付している。青山学院では万代が寄付した資金をもとに「万代奨学基金」を設立し奨学金や教育研究資金に用いられている。
万代順四郎は昭和34年(1959)に逝去。享年75。
東村山市萩山町1-16-1 小平霊園 13-23-7