コロナ過のため取材活動を自粛していた関係で長らくブログ更新をしていませんでしたがボチボチ活動を再開したいと思います。
今回は、多磨霊園にある福澤諭吉の二男、福沢捨次郎を紹介します。
福沢捨次郎は、慶応元年(1865)築地鉄砲洲の中津藩中屋敷に生まれ、諭吉の「まず獣身を成してのちに人身を養う」という教育方針により5歳までは自由に過ごし、6歳から本格的に教育を受けています。
慶應義塾卒業後、兄の一太郎と共にアメリカへ留学し、鉄道に興味を持ちボストンのマサチューセッツ工科大学で土木工学を専攻。
父の諭吉は二人の息子が留学するにあたり「たとえ父母が病気であると連絡を受けようと帰国してはいけない」と記した心得書を渡していましたが、一方で現地にいる門下生たちに二人の面倒を見るよう頼んだり頻繁に手紙や食料品を送るなど色々と心配していたようです。
大学卒業後、兄弟は見聞を広めるためヨーロッパを巡り明治21年に帰国。その後捨次郎は親戚の中上川彦次郎が社長を務める山陽鉄道に技師として入社しますが、明治24年に退職して父諭吉が創刊した時事新報社へ入社。また同年諭吉の勧めで外交官林董の長女菊と結婚しています。
時事新報は元々、福澤諭吉が不偏不党の立場をとって創刊した政治色の強い新聞でしたが、明治29年(1896)に31歳の若さで時事新報の社長に就任した捨次郎は留学時にアメリカの新聞を熟読していた経験を活かし、その手法を柔軟に取り入れ会社経営にあたります。
捨次郎は、社長就任後間もなくロイター通信社と独占契約を締結したほか、当時の大新聞の紙面が政治、官庁関係をメインにしていたのに対し、殺人などセンセーショナルな事件が発生した場合はその記事を一面に割くなど社会面を重視した構成へと変更。
また日本の新聞で初めての漫画を掲載したり、明治40年(1907)には米国紙シカゴ・トリビューン主催「世界美人コンクール」の日本予選として一般女性を対象とした日本初のミスコン「全国美人写真審査」を開催、また囲碁の勝ち抜き戦開催や棋譜の掲載のほか、スポーツ振興にも力を入れていて、現在でも行われている大相撲の優勝力士に写真額を贈る慣例も時事新報が始めたものだそうです。
さらに慶應義塾においては、常任理事や評議員、初代の体育会長を明治25年(1892年)から亡くなるまで勤めるなど要職を歴任しています。
時事新報は捨次郎の手腕により大正期に東京日日新聞・報知新聞・國民新聞・東京朝日新聞と並ぶ東京五大新聞としての地位を確立しますが、明治38年(1905)に大阪へ進出し大阪時事新報社を設立したものの業績が振るわず次第に経営を圧迫。
大正12年(1923)に発生した関東大震災が追い打ちをかけ経営が悪化していく中で、捨次郎は大正15年(1926)6月に社長を退き5ヶ月後に61歳の生涯を閉じています。
時事新報は捨次郎の死後、慶應義塾出身の財界人の支援を受け再建を目指しますがうまくいかず、昭和11年(1936)に『東京日日新聞』(現「毎日新聞」)に買収され廃刊。その後昭和21年(1946)に元主筆の板倉卓造らが中心となり復刊されますが、昭和30年(1955)に『産業経済新聞』(現「産経新聞」)に買収され再び廃刊となっています。
捨次郎について、大阪進出の失敗もあり「親の七光り」、道楽者と低く評価する人々がいる一方、ミスコンやスポーツ振興などで新聞の売り上げ増加を図る手法は現在では当たり前のことであり、新聞業界のパイオニアとして高く評価されるなど、その評価は分かれています。
捨次郎は2男2女に恵まれ、孫には三菱地所の社長・会長を歴任した福澤武らがいます。
TBSテレビのディレクターで演出家・映画監督でもある福沢克雄は捨次郎の曾孫(長男・時太郎の孫)だそうです。克雄は平成時代の日本のテレビドラマ最高視聴率(42.2%)を獲得した『半沢直樹』を始め、「3年B組金八先生」「白い影」「GOOD LUCK!!」など数多くの話題作を手掛けて話題となり福沢諭吉の子孫として紹介されています。
東京都府中市多磨町4丁目628 多磨霊園 2区1種12側5番