九条武子 | 墓守たちが夢のあと

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九条武子の墓

 

説明版

 

九条武子

 

 歌人の柳原白蓮、法律学者・江木衷の妻である江木欣々と並び「大正三美人」と謳われるほどの美貌の持ち主であった九条武子は、明治20年(1887)西本願寺第21代法主・大谷光尊の次女として京都で生まれます。
 明治42年(1909)に正金銀行で勤務する男爵九条良致に嫁ぎ、間もなく夫の勤務兼留学のため夫婦でイギリスへと旅立ちますが、一年半後に武子のみ帰国。良致はそのまま滞在し別居状態が十数年続くこととなります。
 佐佐木信綱に師事し、歌人としても知られた武子は『金鈴』『薫染』などの歌集を発表。歌集は一世を風靡し、美貌の持ち主の武子は一気に世間から注目を浴びています。
 良致の帰国をひたすら待ちつづけていた武子は、大正9年(1920)に夫が帰国すると同居を始め、夫婦仲は武子が亡くなるまで円満だったと伝えられていますが、実際には結婚当初から二人の関係は冷え切っていたものの、実家の西本願寺が世間体を気にして離婚を許さなかったとも言われています。
 教育家としての顔も持つ武子は、義姉・大谷籌子(兄大谷光瑞の妻で良致の実姉)と共に仏教婦人会を創設。婦人会が中心となり、仏教主義に基づく京都女子専門学校(京都女子大学)を設立しています。
 大正12年(1923)に関東大震災が発生すると、自らも被災したものの全壊した築地本願寺の再建に尽力する一方、震災による負傷者・孤児の救援活動にも力を注いでいます。しかし昭和3年(1928)、震災復興活動による無理がたたり敗血症を発症。42歳の若さで生涯を閉じています。
 美人というだけでなく慈愛に満ちた武子の訃報を当時の新聞は一面で伝え、悲しみのあまり自殺する青年までいたと伝えられています。


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