赤穂浪士 原惣右衛門元辰 | 墓守たちが夢のあと

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原惣右衛門元辰の墓

 

原惣右衛門元辰

 

 赤穂浪士四十七士の原惣右衛門元辰についてですが、原家はもともと出羽の最上家に仕えていましたが、最上家が改易となったため元辰の父、原定辰は、皮肉ではありますが吉良上野介の妻の兄である米沢藩主・上杉綱勝の家臣となります。
 定辰は、綱勝の姫が加賀大聖寺藩前田家に嫁いだ際、前田家へ移りますが、その後、浪人となり、赤穂藩浅野家に仕官しています。
 家督を継いだ原元辰は、足軽頭(300石)を務めています。元禄14年(1701)3月14日、勅使御馳走役を務めていた主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に切りかかった際に原は江戸城竜の口の伝奏屋敷にて待機していましたが、事件を受けて幕府より引揚げを命ぜられると短時間で家財道具を運びだし、その手際のよさに幕府目付は感心したといいます。
 その日の内に、事件を伝える第二の使者として大石瀬左衛門信清とともに帰郷した原は、改易を巡る対応で家老・大石内蔵助を補佐。大石と対立する家老・大野知房に詰め寄り藩からの離脱に追い込んでいます。
 城の明け渡し後は大坂に滞在し大石の補佐をしていましたが、大石の依頼で仇討ち教皇を主張する江戸急進派を説得するため江戸へ向かった際、逆に急進派に説得され大石に仇討ちの決行を迫っています。
 浅野長矩の弟、浅野長広の広島浅野宗家への永預けが決まり御家再興の望みが無くなると、京都円山の会議にて大石は仇討ちを決定。 原は江戸へ下り討ち入りの計画策定にも大きく関与していきます。
 吉良邸討ち入りでは、表門隊の司令として大石を補佐しますが、邸内侵入の際に屋根から滑って足を捻挫したため、泉岳寺への引き上げの際には駕籠を使って引き上げたとも言われています。
 その後、熊本藩細川家へお預けとなり、元禄16年(1703)2月4日に切腹。享年56。戒名は「刃峰毛劔信士」。
 原は事件による連座を防ぐため上杉家に残る一族とは絶縁していますが、従兄弟の子孫は米沢藩士として続いているといいます。
 また、切腹当時3歳だった息子は、後に広島藩浅野本家に召抱えられて、広島市内の圓隆寺に両親の供養墓を建立しています。


泉岳寺:東京都港区高輪二丁目11番1号
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