那珂通高(江帾五郎) | 墓守たちが夢のあと

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那珂家墓所

 

那珂通高の墓

 

 幕末期の盛岡藩の儒学者・那珂通高(なか みちたか)は、    文政10年(1828)に藩医・江帾道俊の次男として生まれます。
 通高は後には号の梧楼から那珂梧楼と名乗りますが、幕末期の通称は五郎で、江帾五郎(えばた ごろう)の名で活躍しています。
 弘化元年(1845)父の死去に伴い家督を相続すると藩主・南部利済の近習となりますが間もなく脱藩。江戸で安積艮斎、東条一堂に儒学を学び、更に大和国の森田節斎や安芸国の坂井虎山にも師事しています。
 通高が坂井に師事した時期には、坂井のもとに滞在していた吉田松陰、来島良蔵らと知り合い尊王思想に傾倒していったと言われています。
 安政6年(1859)藩への復帰が許されると儒官に就任。「那珂」へと改姓すると共に、後に歴史学者、文学博士として活躍する通世を養子として迎えます。
 戊辰戦争では奥羽越列藩同盟への参加を支持したため責任を問われ幽閉されていますが、その後、明治新政府では大蔵省・文部省に出仕し「古事類苑」「小学読本」の編纂に参加。
 那珂は渋沢栄一・木戸孝允・陸奥宗光らとも親交を結びますが、不平士族や自由民権運動に理解を示していたことから、萩の乱では関係を疑われて取調を受けたこともあったそうです。
 那珂通高は明治12年(1879)に亡くなり、青山霊園に葬られています。


青山霊園1種イ1-4