小説家 宮本百合子 | 墓守たちが夢のあと

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中条家の墓

 

墓誌

 

 小説家の宮本百合子は、明治32年(1899)著名な建築家中条精一郎の長女として東京小石川に生まれます。
 東京女子師範学校附属高等女学校(お茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校)在学中より小説を書き始め、大正5年(1916)日本女子大学英文科予科に入学すると、中条百合子の名で『貧しき人々の群』を『中央公論』に発表し、天才少女として注目を浴びています。
 その後、女子大を中退し創作活動に専念すると『日は輝けり』『一つの芽生え』『地は饒(ゆたか)なり』などを相次いで発表。
 私生活では大正7年(1918)に父と共に渡米し、コロンビア大学に留学していた際に知り合った東洋古代語研究者荒木茂と周囲の反対を押し切って結婚していますが、帰国後に離婚しロシア文学者湯浅芳子と共同生活を始めています。なお、離婚の経緯について書き綴った小説『伸子』は近代日本文学の第一級品として高い評価を得ています。
 昭和2年(1927)に湯浅と共にソ連を中心にヨーロッパ各地を旅行し、共産主義に傾倒していった百合子は、帰国後に日本プロレタリア作家同盟に加入。日本共産党に入党し、文芸評論家で共産党員でもあっ宮本顕治と結婚しています。
 結婚後まもなく顕治は、プロレタリア文化運動への弾圧のため検挙され非合法活動に従事していきます。治安維持法違反により逮捕された顕治と正式に入籍した百合子は、「宮本百合子」の名で執筆活動を開始。
 獄中の夫を支えるとともに『冬を越す蕾』(1934)などの評論や『小祝の一家』(1934)、『乳房』(1935)などの作品を発表していきます。昭和20年(1945)終戦により12年ぶりに顕治が出獄していますが、獄中の夫に書き送った書簡は後に『十二年の手紙』として刊行されています。
 戦後、百合子は民主主義文化・文学運動の先頭にたち、『播州平野』『二つの庭』『道標』などの作品を発表していきますが、昭和26年(1951)に電撃性髄膜炎菌敗血症により51歳の若さで急死しています。
 百合子の夫、宮本顕治は、その後日本共産党の書記長、委員長、議長を歴任し党首として活躍しています。青山霊園の中条家の墓の墓誌に顕治の名はありませんが、「宮本百合子」の名が刻まれていました。


青山霊園 1種ロ8号33側 中条家