平清盛の妻・二位尼(平時子)「新井の石舟古墳」 | 墓守たちが夢のあと

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案内板

 

新井の石舟古墳

 

石室内部

 

説明版

 

集落内にあった石室の模型

 

 鳥取市国府町新井にある「新井の石舟古墳」は、鳥取に伝わる安徳天皇伝説に絡み、地元では天皇の祖母で、平清盛の妻であった二位尼(平時子)の墓であると伝承されています。
 二位尼(平時子)は中級貴族の平時信の娘で、久安元年(1145)頃、清盛の後妻として迎えられ宗盛、知盛、徳子(建礼門院)らが生まれています。
 異母妹の滋子が後白河院の寵妃となり、その子である憲仁親王(後の高倉天皇)が立太子すると、時子も従二位に叙せられます。
 承安元年(1171)に娘の徳子が高倉天皇に入内し、清盛と皇室との関係は更に深まり、治承4年(1180)には徳子の生んだ外孫・安徳天皇が即位し、清盛と時子は准三宮の宣旨を受けるなど平家一門は全盛期を迎えます。
 清盛亡き後、二位尼は平家の家長たる存在で、一門の精神的支柱となりますが、打倒平家を目指して源氏が挙兵し都を追われた平家一門は、壇ノ浦の戦いで源氏軍に敗北。二位尼は安徳帝と共に海中に身を投じ自害したと言われています。
 二位尼が安徳天皇と共に壇ノ浦から脱出し、鳥取へ逃げ延びたという伝承において、二位尼の墓と伝わる「新井の石舟古墳」は、江戸時代には「泉塚」とも呼ばれた直径10メートルほどの小規模な円墳で築造年代は6世紀末から7世紀前半と推定。現存する横穴石室内の玄室には凝灰岩で造られた家形石棺が安置されています。石棺は縦1.5m、横1m、深さ55cmあり、古くから安徳天皇陵として伝わる「岡益の石堂」と共に信仰の対象となってきました。
 石舟に溜まった泥水の量により米の豊作を占い、水をかき乱すと100日間、雨が続くという伝承もあり、現在でも住民の方によって大切に祀られています。
 今回、取材で現地を訪れた際も、集落の入り口から細かく案内板が設置されていて、途中の集会所には石室の模型が展示されているなど、地元の方々が遺跡を大切にしていることをうかがい知ることができました。


鳥取市国府町新井。集落奥の砂防ダム付近。