安徳天皇陵墓参考地 岡益の石堂 | 墓守たちが夢のあと

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安徳天皇が暮らしたと伝わる長通寺(光良院)

 

石堂へ続く石段

 

覆屋により保護された「岡益の石堂」

 

中央に配置された石柱

 

 鳥取県鳥取市国府町岡益にある「岡益の石堂」(いしんどう)と呼ばれる石塔は、いつ、誰が、何の目的で建てたのか不明で、地元では「謎の石堂」とも呼ばれていました。
 石堂の構造は、高さ1mの基壇の上に、厚さ40センチの一枚岩の壁石が側面を囲み、中央には約2mの、エンタシスと呼ばれる、ふくらみがある心柱が立っています。そして心柱の上にはマス形の石が乗り、さらに塔の笠石を積み重なっています。
 このような建造物は国内では例が無く、海外でも朝鮮半島の古墳に僅かにみられる程度。エンタシスは古代ギリシャでみられる構造であり、「岡益の石堂」は、こうした海外文化の影響を色濃く残しています。石堂の背後に岡益廃寺と名付けられた古代寺院跡が見つかっているため仏教に関する遺跡ではないかというのが現在の定説ですが、はっきりした事は分かりません。
 ところで、石堂は現在、安徳天皇の“陵墓参考地”として宮内庁により管理されています。安徳天皇は平清盛の孫で、文治元年(1185)に壇ノ浦の合戦で入水して亡くなったとされています。しかし、ご遺体が見つからなかったことにより壇ノ浦から逃げ延び、隠れ里で暮らしたという伝説が各地に残されています。
 鳥取の伝承によると壇ノ浦の合戦の後、安徳天皇は祖母の二位の尼らに守られて船で脱出し、因幡の国、賀露の港(鳥取市)にたどり着きます。そして岡益の光良院(現在の長通寺)の住職の支援で寺で生活をおくりますが、寺では人目につくため更に山奥へ仮御殿を造営し退避していきます。
 しかし、安徳天皇は文治2年(1186)に急な発病により僅か9歳で崩御され、遺骸は光良院に埋葬。墓として建立されたのが岡益の石堂であると伝えられています。
 実際には石堂は7世紀頃に造られたものと考えられ時代が合いませんが、古くから伝わる伝承を元に明治期に地元の有志が国へ陳情を行い石堂が宮内省管理となったそうです。
 岡益の石堂は現在、風化が進んできたため薬剤を注入するなどの保存処理が行われ、覆屋が設置され保護されています。

長通寺:鳥取県鳥取市国府町岡益285
岡益の石堂:鳥取県鳥取市国府町岡益。長通寺隣にある駐車場から石段を上った丘の上。