大倉財閥二代目総帥 大倉喜七郎 | 墓守たちが夢のあと

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墓誌

 

大倉喜七郎

 

 大倉財閥二代目総帥の大倉喜七郎は、明治15年(1882)に創業者・喜八郎の嫡子として生まれ、明治33年(1900)にイギリス・ケンブリッジ大学に留学。
 大正11年(1922)に父親に代わり帝国ホテル会長に就任するなど着実に後継者としての地位を固めていき、昭和2年(1927)に家督を継承。その後、ヨーロッパ式の本格的な観光ホテルの導入を目指し、川奈ホテル、赤倉観光ホテルを設立し大倉財閥をさらに発展させていきます。
 第二次大戦後、財閥解体や公職追放により帝国ホテルを離れることとなりますが、東京オリンピックを2年後に控えた昭和37年(1962)に、日本古来の伝統美で諸外国の貴賓を迎える「帝国ホテルを超えるホテル」をコンセプトに「ホテルオークラ」を大倉邸の敷地跡に建設しています。
 多趣味であった喜七郎は、文化・スポーツ面にも広く功績を残しています。イギリス留学中に自動車の操縦・修理技術を習得した喜七郎は、1907年にロンドン近郊のブルックランズ・サーキットで最初に行われたカーレースで、イタリア製フィアットに乗り2位入賞。帰国時には自動車5台を持ち帰り、日本初の自動車輸入会社「日本自動車」を設立するなど、自動車通として知られます。
 昭和5年(1930)には横山大観ら日本画家を支援しイタリア・ローマで「日本美術展覧会」を開催。出品作品はすべて買い上げたそうで、戦後手元に残されていた作品を、理事長を務める「大倉集古館」に寄贈しています。
 囲碁の愛好家でもあった喜七郎は明治以降、各団体に分かれ対立していた囲碁界統一に一役買い、大正13年(1924)に日本棋院が設立されます。日本棋院では喜七郎の功績を讃え、囲碁普及に功労があった人に「大倉喜七郎賞」を贈っています。
 昭和47年(1972)の「札幌オリンピック」でスキージャンプ競技が開催された「札幌大倉山ジャンプ競技場」も喜七郎が昭和6年(1931)に私財を投じて建設したものだそうです。
 この他、音楽に興味を持ち、新邦楽の一種である大和楽を創設。尺八とフルートを合わせた新しい楽器「オークラウロ」を発明するなど屈指の趣味人としても知られた喜七郎は、イギリス仕込みのダンディーな容姿から「バロン・オークラ」の愛称で親しまれ、昭和38年(1963)2月2日に亡くなっています。


東京都文京区大塚5-40-1 護国寺

  ※大倉家の墓は喜八郎の墓所の敷地内にあります。