大倉財閥 大倉喜八郎 | 墓守たちが夢のあと

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大倉喜八郎の墓

 

「電気灯柱記念碑」

 

大倉喜八郎

 

 護国寺に塀に囲まれた広い敷地の明治の元勲・山縣有朋の墓所がありますが、その隣にも塀に囲まれた大きな墓所があります。こちらは大成建設、帝国ホテル、日清製油(日清オイリオグループ)など、現在でも活躍する多くの企業を創業した大倉財閥の創業者・大倉喜八郎の墓所です。
 大倉喜八郎は、天保8年(1837)に越後国北蒲原郡新発田(新潟県新発田市)で商人の家に生まれ、安政1年(1854)に江戸に出ると鰹節店での丁稚奉公を経て乾物店を開業。幕末の動乱に乗じて銃砲の販売店へ転じ名を馳せます。
 喜八郎は、明治6年(1873)に銀座で大倉組商会を設立し、新政府の御用商人として台湾出兵、西南戦争、日清・日露戦争の軍需物資調達で財を成し、大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の3社を中核とする大倉財閥を形成していきます。
 独自での企業起業創立だけでなく、親しくしていた「資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一の呼びかけに協力し、鹿鳴館、帝国ホテルなども創立し運営。二人が発起人となり東京商法会議所(現東京商工会議所)を設立しています。喜八郎は企業以外でも明治31年(1898)に大倉高等商業学校(東京経済大学)を設立するなど日本の近代化に大きく貢献していきます。
 明治15年(1882)には日本初の電力会社「東京電燈」(東京電力)設立に伴う宣伝の一環として、仮事務所が置かれていた銀座大倉組商会前で日本初のアーク灯を点火。驚嘆した市民が毎夜見学に押しかけていたそうで現在、その場所に記念碑が設置されていました。
 一代で莫大な財産を築き上げた喜八郎のエピソードとして南アルプス赤石岳(3120m)への「大名登山」が語り継がれています。大正15年(1926)に秩父宮雍仁親王が立山を踏破したことに感激した喜八郎は、自ら所有する赤石岳の山頂で88歳の祝いを行うことを思い立ちます。
 登山道の整備から始まり、山頂で入るための風呂桶や、出来立て豆腐を食べるために石臼まで担ぎ上げたパーティーは実に200名余り。本人は駕籠に乗り、急峻な所では背負子状の椅子を担がせたそうで、山頂で羽織袴に着替えて万歳三唱している姿が、当時貴重なフィルムに収められるなど、日本登山史上最大の大名登山と呼ばれています。
 昭和2年(1927)に大倉火災海上保険(現・あいおいニッセイ同和損害保険)を創業するなど晩年まで精力的に活動していた喜八郎は、同年1月5日に隠居し家督を嗣子・喜七郎に継承。昭和3年(1928)に90歳の生涯を閉じています。


大倉喜八郎の墓 東京都文京区大塚5-40-1 護国寺

「電気灯柱記念碑」 中央区銀座2丁目6-12 大倉本館ビル