江戸幕府最後の大老 酒井忠績 | 墓守たちが夢のあと

墓守たちが夢のあと

歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

酒井家墓所

 

酒井忠績の墓

 

顕彰碑

 

管理事務所の立札

 

 江戸幕府において臨時に老中の上に置かれ将軍を補佐した最高職の「大老」。最後に就任したのは播磨姫路藩第8代藩主で雅楽頭系酒井氏宗家16代の酒井忠績(ただしげ)です。
 酒井忠績は、姫路藩分家の旗本・酒井忠誨の長男で、本家の姫路藩主酒井忠顕に跡継がなかったため養子となり、万延元年(1860)に家督を相続しています。
 文久2年(1862)に忠績は京都所司代臨時代行として上洛していますが、これは桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺された後に、直弼に近かった人物の京都所司代就任を朝廷が拒否したため人選に難航したのが理由だったそうです。
 京都での活躍が認められて、文久3年(1863)に老中首座となった忠績は、兵庫開港における朝廷対策に奔走。また、将軍徳川家茂の上洛時には江戸城留守居役を務め、元治元年(1864)に老中を退任。しかし、8か月後の元治2年(1865)に大老に就任し、第二次長州征討の事後処理などにあたっています。
 慶応3年(1867)に弟の忠惇に家督を譲り隠居した忠績ですが、忠惇が新政府に「鳥羽伏見の戦い」で幕府側についた責任を問われ蟄居となり、忠績も共に謹慎となります。
 しかし、忠績は新政府の徳川家への処遇に不満を持っていたため、「徳川家譜代の家臣である酒井家が、徳川家との関係を切り新政府に仕えるのは不忠であり所領を返上したい」と申し立てます。
 この申し立てに忠惇も同調し、対応に苦慮した新政府は、忠惇に替わり遠縁の伊勢崎藩から養子に入り家督を相続した藩主・酒井忠邦に説得を命じます。
 しかし忠績が聞き入れる訳もなく、最終的には藩内の佐幕派を粛清したうえで、忠績を実弟の静岡藩士・酒井忠恕方にあずけ事態収拾を図ったそうです。
 忠績は、明治13年(1880)に終身華族となり、明治22年(1889)には酒井宗家とは別に男爵を授けられ別家を興し、明治28年(1895)に68歳で亡くなっています。
 家督は長男の忠弘が継いでいますが、染井霊園にある墓所は、現在、子孫の方と連絡がとれなく無縁墓となっているそうで、取材時はまだありましたが、撤去が予定されているそうです。


染井霊園 一種イ4号6