松江藩最後の藩主 松平定安 | 墓守たちが夢のあと

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松平定安の墓

 

松平定安

 

 文京区の護国寺にある大名茶人・松平不昧公の墓の隣りに、松江藩最後の藩主・松平定安(まつだいら さだやす)の墓があります。
 松平定安は天保6年(1835)美作津山藩主・松平斉孝の七男として生まれ、嘉永6年(1853)に松江藩第9代藩主・松平斉貴の婿養子として家督を継ぎます。
 斉貴は天保の大飢饉など災害が発生する中、藩の財政を顧みず幕府に多額の献金を行い、鷹狩りなどに興じたため家臣団らから強制隠居させられ、同族の定安が後継者に選ばれたのです。
 定安は幕末の動乱の中で佐幕派の大名として大坂や京都を警備する一方、西洋学校創設や留学生の派遣。砲術や医術の近代化に取り組みます。
 定安はアメリカから軍艦八雲丸を購入するなど軍備増強に力を入れますが、文久3年(1863)に隠岐島で17歳から50歳の男子を徴兵して農兵隊を組織したことにより、慶応4年(1868)に3000人の島民が蜂起。松江藩からの独立を訴える「隠岐騒動」が発生しています。
 慶応2年(1866)第2次長州征伐において長州藩が優勢となり出雲国境にまで迫ると、定安は長州藩と講和せざるを得なくなり、慶応4年(1868)の戊辰戦争では新政府側として出陣しています。
 その後、版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871)に廃藩置県で免官された定安は、明治5年(1872)に隠居し、家督を養子で、先代斉斎の実子である直応に譲っています。
 しかし、明治10年(1877)に直応が隠居したため再び家督を相続し、明治15年(1882)に再び隠居。家督を三男の直亮に譲り、同年に亡くなっています。享年48歳。
 定安に対しては大正13年(1924)に従三位が追贈されています。


東京都文京区大塚5-40-1 護国寺