飯野藩第10代藩主 保科正益 | 墓守たちが夢のあと

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保科正益夫妻の墓

 

 上総国周淮郡飯野(現在の千葉県富津市下飯野)にあった飯野藩の最後となる、第10代藩主・保科正益(まさあり)は、天保4年(1833)先代・保科正丕の三男として生まれます。
 嘉永元年(1848)正丕が亡くなり家督を継いだ正益は、嘉永3年(1850年)12月、従五位下、弾正忠に叙任。
 大坂定番などを経て、慶応2年(1866)に若年寄に任じられた正益は、第2次長州征伐では石州口における幕府軍を指揮しますが、戊辰戦争では新政府に恭順。
 しかし、親戚に当たる会津藩主・松平容保が徹底抗戦したことにより連座による謹慎処分となり、幕府寄りの家臣を処刑して謹慎が解かれています。

 

保科正益

 

 明治2年(1869)版籍奉還により飯野藩知事に任じられ、明治4年(1871)の廃藩置県で免職。明治17年(1884)に子爵を叙爵し、明治21年(1888)に死去。享年56歳。
 保科正益の墓の隣に眠る妻の節子は、伊予国宇和島藩の第7代藩主・伊達宗紀の七女です。


青山霊園1種ロ12-30