子爵 田沼望 | 墓守たちが夢のあと

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田沼家累代の墓

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戒名

 勝林寺の「田沼家累代」の墓で、最後に名前が刻まれているのは子爵・田沼望です。
 明治2年(1869)に小久保藩主で版籍奉還により藩知事となった田沼意尊が亡くなり跡を継いだのは、武蔵岩槻藩主大岡忠恕の五男・田沼意斉です。意斉は小久保藩知事として養父の手掛けた藩校の充実に力を入れますが、明治4年(1871)より藩政を大参事に任せ遊学。その後、廃藩置県により藩知事を解任されています。そして意斉は、明治6年(1873)に家督を先代意尊の長女である智恵に譲り隠居。田沼家からも籍をぬいています。
 新当主となった智恵は、明治7年(1874)に宇和島藩主伊達宗城の六男である忠千代と結婚し当主の座を譲りますが明治11年(1878)に離婚。再び当主となった智恵が再婚相手に選んだのが田沼望です。
 田沼望は、少納言・伏原宣諭の二男で、宮内省に勤務。御用掛、侍従試補などを歴任しています。
 また、明治24年(1891)の貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、政治家としても活躍。明治33年(1900)8月24日に亡くなっています。


勝林寺:豊島区駒込7-4-14