清水家 第4代当主・徳川斉明 | 墓守たちが夢のあと

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 御三卿の一つ清水家の第4代当主・徳川斉明(なりのり)は、文化6年(1810)11代将軍徳川家斉の十一男として生まれます。
 家斉の五男で第2代当主となった徳川敦之助は、寛政11年(1799)にわずか4歳で亡くなり、しばらく当主不在であった清水家は、文化2年(1805)に第3代当主として敦之助の異母弟、徳川斉順を迎えますが、文化13年(1816)に紀州藩主・徳川治宝の娘婿となった虎千代(斉順の異母弟)が早世したため、代わりに治宝の娘婿として転出し、後に紀州藩主となります。斉順は14代将軍徳川家茂(慶福)の父です。
 徳川斉順が紀州家へ移り、代わりに当主となったのが保之丞で、文政3年(1820)、元服に際し父である将軍徳川家斉から偏諱を与えられ斉明と名乗ります。しかし斉明は将来を大変期待されたものの、文政10年(1827)に亡くなっています。享年19歳。
 斉明の死後、清水家を継いだのも家斉の子、徳川 斉彊(なりかつ)(二十一男)ですが、弘化3年(1846)清水家の先々代当主でもある紀州藩主・徳川斉順が亡くなり養嗣子として紀州家を継いでいます。
 そのため清水家は慶応2年(1867)に水戸藩主・徳川斉昭の十八男・徳川昭武が継ぐまで、再び当主不在の状態となります。清水家は昭武の時代に明治維新を迎えますが、それまでの6名すべての当主が養子で、内4名は徳川家斉の息子という、御三卿の中でも特異な家であったと言えます。
 徳川斉明の墓石は現在、清水徳川家合祀墓となっています。昭和初期に菩提寺であった寛永寺の塔頭・凌雲院から移転した際、斉明の墓碑が合祀墓として使用されたそうです。
 
東京都台東区谷中 谷中霊園 寛永寺徳川家墓地